結び目
『結び目』
ふと引けば解けてしまうほど緩い、その
その少年の名は、壇燈治といった。
心根は正直で、概ね素直で、沸き起こる感情が行動に直結している。そんな子供である。
薄暗いことや湿ったことが概ね苦手で、卑怯な真似をするものがもし在ればとにかくその拳をもって叩きのめした。
それは何も母からの教えの所為ばかりではない、そうした行いが己の視界を掠める、そのことが燈治には耐えられないのだ。我慢ならないのである。
勿論、そうして吹っ掛ける喧嘩は相手の力量をじっくり見てから売るような慎重なものでは全くなかったから、燈治の喧嘩は勝ち戦ばかりではなかった。複数に囲まれて返り討ちに遭うこともしばしばである。しかし、どれほど痛めつけられようと、燈治は己の行為に対してしなければよかった、などと後悔したことは一度もなかった。自身の感じたままに動かぬこと、己のこころを裏切ること、そちらは殴り返されて傷を負うことよりも余程、燈治にとっては耐え難いことだったのである。
そしてもうひとつ、燈治という子供を語る上で決して外せぬものが、野球、である。
燈治は野球というものがとても好きだった。みなで白い球を打ち、守る、それが現在の燈治にとっては何よりも一番たのしいことなのだ。野球を愛するあまり、学校の授業のさなかにでもどう球を投げるのか、といったようなことばかりを考えてしまい、勉強が疎かになってしまうこともしばしばだった。
揺るぎない確固たる正義を己の芯として持ち、野球とそれをする己の仲間たちをこよなく愛する。
それが、壇燈治という名の子供であった。
放課後。
チャイムと共に退屈な授業がようやく終了した。それは同時に、燈治にとって最もたのしい時間の到来である。
何処か開放的な感じのする喧騒のなか、燈治は鞄を抱えながら下足ホールへと急いだ。
いつもの仲間たちといつもの場所で、いつもと同じように球を追う為に。その楽しみを思うとどうしても心が逸る。
今日はどうしようか。昨日閃いた投げ方を早速試してみたい。
そう思いはするものの、投手はみながやりたがるポジションである、出来るだけ公平に順番を決めなければ。打つ順もそれと同様。偏りがあるとどうしても不満が混じってしまう。そうするとせっかくのたのしい空気に黒い染みが沸いて、台無しになってしまうのだ。
燈治はそのことをよく知っている。道理は、通さねばならないのだ。絶対に。たとえ、その所為で自身の投げる機会、打つ機会が減るのだとしても。
野球というものはひとりきりで出来るものではない、仲間が居るからこそ楽しめるのだ。その恩恵をみなで共有する為には、守らなければならぬ規定というものが在るのである。それらのことを燈治はただ漠然と、しかし明確に理解していた。
誰かの我慢や悲嘆の上に胡坐をかいて貪る楽しみなど、本当の楽しみではない。燈治は、楽しそうな顔をした仲間たちと楽しく野球をすることこそが、好きなのだ。
それこそが、燈治の求めるものなのである。
燈治が初めてその少年を見たのは、そうした時だった。
下足ホールへと続く、一階のあまり陽の差し込まぬ仄暗い廊下の一角。
その陰の中に、その少年は、居た。
女性教諭が何やら声を掛けている。
あの教諭は何組の担任であったか。その顔を知ってはいるのだが、あまり興味のないことなので燈治にはそれがどうにも思い出せない。同じ学年の組を受け持っている担任教諭であることは、確かなのだが。
急いでいた筈の燈治がふとそちらに注意を引かれたのは、自分と同年と思しきその少年が敬語を使って話していたからである。
目上の人間には丁寧な言葉を用いるべきであるのは燈治とて知ってはいる。が。燈治の周囲にはそれを忠実に実践しているような男子生徒はひとりも存在しなかった。女子生徒などが時折使っているのを耳にするくらいで、敬語というものは燈治にとって全く、耳慣れぬ言語なのである。
だから。おかしなやつだ、と思った。
感心めいたものもないわけではなかったが、それでも感想の大半はそれである。
―――かず、
教諭の声音の途切れた断片が、燈治の耳まで届く。
少年の名、なのだろうか。
それにしても。一度も見掛けたことのない生徒だった。
そういった噂は耳にしなかったが、別の組に来た転入生なのだろうか。もしそうでないなら、余程目立たぬ生徒なのか。燈治の立っている場所からは、少年の詳細な容貌を窺い知ることは出来ないのだが。
そんな燈治の思索を余所に、二、三言を交わし終えたあと女性教諭は少年の傍から去っていった。
その背に向かい、少年は小さく頷く程度に一礼をする。燈治は、教諭に対して頭を下げるようなおこないについても先刻の敬語同様、おとなたちや女子生徒以外には見たことがなかった。
おかしなやつだ。
再び、燈治はそう思った。重ねたぶん先刻よりもその度合いは強い。
けれど燈治はふと我に返り、元々の目的を思い出す。今は見覚えのないおかしな男子生徒に気を取られている場合ではないのである。いち早く公園へ急ぎ、仲間たちと合流しなければ。公園で遊ぶ子供は当然燈治たちばかりではないから、少しでも遅れてしまえば良い場所を先に取られてしまう。
何よりも重要なその用件を思い起こし、燈治は一度止まってしまった足を再度急がせた。そのまま少年の隣を通り過ぎる。
通りすがりにちらりと見ると、少年は何やら分厚い本を三冊も抱えながら、廊下の窓からぼんやりと外の景色を眺めていた。女子と見間違えそうなほど妙に華奢な輪郭。袖口から覗く腕が燈治のそれよりも幾分細く、そして白い。強くぶつかると怪我をさせてしまいそうな気がした。
しかし、その黒い眼が。
少年の黒い色の眼だけが、異様な強さを含んでいたので。一体何を見ているのだろうかと、思わず燈治も同じ方角に眼を遣ってみたのだが。
少年の凝視する先を同じく見詰めてみても、其処には注視すべきものなど何ひとつなかった。
ただただ何の変哲もない、無人の中庭の景色が拓けているのみなのである。しかしどう見ても、あの少年の眼差は到底ありふれたものを見詰めるような、そんな雰囲気ではない。
だから、燈治は、うっかりと少年に声を掛けてしまった。
急いでいたし、おかしな男子生徒へ話し掛ける気など更々なかったというのに。
「……………外に……、なんか、あんのか?」
燈治の声を受けた少年の、睨みつけるような、それでいて黒い硝子玉のような無機物めいた眼が、ゆらりと景色を離れ。燈治の姿を捉える。
そして、互いの視線が結ばれた。
刹那、泡粒にも似たつめたさが燈治の皮膚のおもてをぶくぶくと這い上る。これは何だ。
「みえないの?」
得体の知れぬ感覚に燈治が戸惑っていると、結ばれた視線にひどく似つかわしい静かな声音が返った。
そう言われ、己の腕を擦りながら燈治はもう一度窓の外を眺めてみた。しかし何度見詰め直しても、先刻と同様、其処にはのっぺりとした景色が横たわっているだけ。
なんにもねェじゃねえか
それなのに。
その少年の表情が、とても冗談を言っているようなものではなかったので。むしろ、何も見えぬ燈治のことをこそ心底不思議がるようなものだったので。