エルピス
確かにアポリアは狼狽した声をだした。ゾーンの前では必ず柔らかなトーンで喋る彼がはじめて出した悲痛な声だった。心がいたいんだ、そういってアポリアは右手で胸をおさえた。その部分にはなにもないはずだ。心が宿るとよばれる心臓は彼にはない。彼は機械だ。ゾーンはそれをしばらく黙ってみている。
「私が人間だったなら、おそらく涙を流しているだろう。それくらい辛いのだ。キミが素顔を見せてくれないのは…」
「それはできません」
ゾーンはあくまではっきりとした態度で対処する。言われたアポリアといえば、ぎゅっと唇を噛みはためにみれば演技ではないかと疑うくらいわかりやすく落ち込んでみせた。次の言葉は決まっている。
「なぜ…」
そして返す言葉も、もうずっと昔から決まっていた。
「私の顔をみても、なんにもならないからですよ」
あの日、不動遊星がすべてを失った日に、不動遊星は壊れてしまった。不動遊星が壊れて、再びでることのない表にでてくることになったゾーンは滅亡の未来に気が狂いそうになった。不動遊星の深い悲しみを知り、また自我の絶望を味わった。そしてその負の感情はますますゾーンを研究へと駆り立てた。不動遊星の人格は、そういうパターンになっている。高潔なまでの自己犠牲精神。ゾーンは自ら植えつけたその人格に振り回されてしまった。
そして不幸なことに体と精神はリンクしている。不動遊星とゾーン、二人分の崩壊を抱え込んだ体も次第に病んでいってしまった。夜は眠れず、運動器官は低下し、判断力も衰えていく。疲労に疲労を重ねる生活にゾーンの顔はめっきりと老け込んだ。今にも死んでしまいそうだ、おねがいだから休んでくれ、とアンチノミーが泣いて懇願するまでゾーンは休むことなく研究を続け、みていられなくなったパラドックスが無理やり睡眠薬と精神安定剤を打ち込むまで徹夜の日々を続けた。
元々無理に骨格を改造した体は脆い。それに加えて、不動遊星の人格は19歳の若々しい青年であるが、ゾーンは体力の衰え始めたしがない研究者である。遊星の気力にゾーンの体力が追いつくはずはない。仲間が気づいたときにはすでに遅く、ゾーンはある日高熱を出して寝込み、右手と左足を悪くしてしまった。しばらくは機械の義手を使って生活していたが、不便だからとその両手両足すら剪定してあんなに巨大な楼閣に自分を閉じ込めてしまった。
ゾーンの素顔を知るものは誰もいない。
一番長い付き合いのアンチノミーでさえ、借り物の英雄像しかしらない。けれどアポリアはそれでもアンチノミーが羨ましくて仕方がなかった。アポリアはかつてゾーンが世界を救おうとして英雄をその身に宿したことを知らない。そしてゾーンは過去を一切話したがらなかった。それだからアポリアはあの仮面のしたには普通の、(老いた)人間の顔があると信じ込んでいたのだ。
「貴方は知らなくていいのです」
ゾーンは、これからアーククレイドルをネオドミノシティに落とすにあたって、自分が顔をみせることによりアポリアに不祥がでることを危惧していた。もし自分をこれほどまでに慕ってくれるアポリアが不動遊星と対峙した場合、平生のままで戦えるのか。例え記憶を消去したとしても、ふとしたタイミングで復活してしまうかもしれない。なにより恐れたのは不動遊星の求心力に取り込まれてしまうことだ。希望の英雄、不動遊星。彼のデュエルはあまりに多くの人間を変え、救い続けてしまった。彼が英雄と呼ばれた理由はそこにある。
「貴方を苦しませたくはない……それに、私も辛いのです。アポリア」
「キミも……辛い?」アポリアは繰り返した。「どういう意味なんだ…?」ゾーンはアポリアがわからなくても仕方ないと思った。これは全くの自分勝手な考えだったからだ。
アポリアは、なにも知らない。この顔が不動遊星ではないことを。それに少なからず救われていた。彼の前では、不動遊星にならなくてもいい。重すぎる英雄伝説を抱えなくてもいいのだ。英雄に諦めることは許されない。前を見続けることしかできない。それはとても疲れることだった。
彼と共にいるときだけ、ゾーンは不動遊星の仮面を忘れることができる。ゾーンの仮面は外からの視線より、内からの視線から守るためのものだった。自分を英雄とあらせようとする不動遊星の人格からの最後の砦なのだ。
「貴方は…知らなくていい……知ってほしくない……」
アポリアの顔がどんどん歪んでいく。誰よりも人間らしい心を持ったアポリアにはさぞ辛いだろうとゾーンは思った。素顔を伏せ、その理由も伏せ、結果的にゾーンはアポリアに信頼を失わせる仕打ちをしたのだ。それでもアポリアの心の拠り所はゾーンしかいない。ゾーンは細くなった機械の腕を動かしてアポリアの胸に丸く円をえがいた。そしてわざと突き放すような言葉を選んだ。「辛いなら、すぐに楽にできます」その胸に宿る心を預かってしまえば。アポリアははじめてゾーンを睨みつけて遠慮する、と踵を返す。
「私はまだマシーンにはなりたくない」
アポリアの姿が消えてから、一人残された空間にゾーンの静かな嗚咽だけが響いていく。ゆっくりと頬を濡らす液体を感じながら、これは涙を流すことのできない彼のものなのだと思った。