病室の中で
大声を上げて病室の中へ駆け込む。日々ピアノに向かってばかりで、あまり外に出ない私は、息が上がり、部屋の中で両膝と両手をついてしまった。
「坊ちゃんは無理せず部屋の中に閉じこもってた方がいいんじゃねぇの?」
けせせせ、と笑うギルベルトの声がベットの上から降ってきた。
「何ですか……、せっかく、お見舞いに来てやったと言うのに――」
荒い息のまま顔を上げ、思わず絶句した。ベットの上で横たわる彼は傷だらけだった。想像していたよりは良かったものの、頭や右腕など体のあちこちに包帯が巻かれている。顔にも湿布や絆創膏がべたべたと張られ、満身創痍の状態だった。
「……一体、何があったんですか。昔からあなたは生傷が絶えない人ではありましたが……。いきなり病院からあなたが傷だらけで運ばれてきたという電話を受け取ったこちらの身にもなってみなさい、このお馬鹿さん!」
「いやぁ、俺様としたことがちょっとドジやらかしちまってな。でも相手は全員ぶちのめしてやったぜ!」
と、自慢げに胸を張る彼を見て、私はため息をこぼした。どうやら喧嘩をしてこの怪我を負ったらしい。
「存在するための基盤を失ったあなたほど不安定な人もいないんですから……。こんな馬鹿げた真似はこれ以後およしなさい。いいですね?」
確認のつもりで投げかけた言葉だったが、
「嫌だ」
「な!?」
彼は冗談を言っている風でもなく、むしろ真面目な顔になり、こちらを見据えて話を続けた。
「お前をこんだけ心配させて、病院まで走らせたのは悪いと思ってる。けどな、俺は怪我したことをこれっぽっちも後悔してねぇ。これだけの怪我をしてもやらなくちゃいけねぇことだったんだ」
「そんなに大切なことがあったんですか? 一体何を理由に喧嘩したんです」
「お前だよ」
その答えは自分の想像からはかけ離れすぎていて、思わず怪訝な声を出してしまった。
「はぁ?」
「どこの家のやつらだか知らねぇけど、お前のことを『ピアノばっか弾いてる』だの何だのって馬鹿にしてたからな。我慢しきれなかったんだよ」
「ギルベルト……」
口をへの字に曲げて忌々しげに窓の外をにらむ彼を見て、私は何も言えなくなった。
確かに、昔から何度も喧嘩はしているが――いや、しているからこそ、利益のない喧嘩には手出ししなかったし、理由もなく相手に襲いかかることなんて一度もなかったのだ。
「そ、それでも! それでも、こんな怪我をしてくるのはおよしなさいっ! ほ、本当に心配したんですからね! 私を馬鹿にする人なんて放っておいて下さい、あなたが怪我をする方が怖いんですから!」
早口でまくし立てると、彼は驚きに目を見張って一瞬黙り込み、そしてこらえきれないとばかりに吹き出した。
「お前から『心配した』なんて言葉が聞けるなんてな、傑作だぜ!」
によによと笑い続ける彼に対し、私はおそらく赤くなっているだろう顔のまま怒っていた。
「こ、こらっ! お馬鹿! 人が真面目な話をしている時に笑うんじゃありません!」
「ははっ……分かったよ、怪我はしないようにしてやる」
ただな、と言葉は続いた。
「これからもお前を馬鹿にしたやつは絶対に許さねぇ。ここだけは絶対に譲らないからな」
何を言っても無駄だということがよく分かる声音だった。
「――分かりましたよ。ですが、さっさと退院なさい。一人で家には帰りませんからね」
「帰れません、の間違いじゃねぇのかよ? ここまで歩いてきたわけでもねぇんだろ」
後者に関しては図星だった。
「ひ、一人でも家に帰ることぐらいできます!」
「見栄張んなよ、買い物行くだけで道に迷う坊ちゃん」
「お、お黙りなさい!」
「けっせっせ。で、何で一人で家に帰るの嫌なんだ? さすがにタクシーかなんか使えば家に帰れんだろ?」
いつもこちらのことをからかってくるのに、大事なところを見逃すことはない。今回もそれが破られることはなかった。
「……孤独に耐えられる気が、しないんです。昔だったらまだ平気だったかもしれない。でも、あなたが傍にいてくれるようになってからは……」
あなたと離れるなんて考えられない、とつぶやいた言葉はやけに響いたような気がした。
「よっしゃ、さっさと傷治して帰っから、またトルテ食べさせろよ!」
「分かりましたよ」
そうやって、いつも私を無駄に気遣ったりはしないあなたのことが、私は、
「大好きです、ギルベルト」
「俺だって大好きだぜ? ローデリヒ」
そんなことぐらい、分かってますよ。当たり前でしょう?
(完)