幸福な午後
久しぶりの休日。穏やかな午後。家族との憩いの時間。
「おいっ、卑弥呼! テメェ俺のプリン食っただろっ!」
「アンタのだって知らなかったのよ! プリン一個でカリカリするんじゃないわよ、小さい男ね」
「ああっ!? 貧乳のお前が乳製品食ったって乳はでかくなんねぇぞ!」
「ぬぁんですってぇ!」
うん、平和だ。妹と最近出来た新しい家族とのやり取りを眺めながら、上機嫌で煙草を吹かす。
己の家庭で平和を見出す者が一番幸福な人間である。偉大な詩人の言葉はまさしく真実だ。
リビングのソファに座りながら、リビングからそのまま続くキッチンの二人を眺める。言い合いの矛先はいつの間にか自分に向かっていて。
「まったく、兄貴! 兄貴も蛮に何とか言ってよ!」
「何言ってんだよ! 邪馬人も卑弥呼が悪いと思うだろう!?」
「いやぁ、二人が俺を奪い合うなんて嬉しいなぁ。俺は二人とも愛してるぞ!」
「「誰が奪い合うかっ!」」
心からの宣言に、双方から鋭い突っ込みが入った。いや、殴られないだけ良い。例え殴られたとしても、それはそれで可愛らしいと思うが。
「あー、何か馬鹿らしくなってきた。蛮、あたし今から買い物行くから、食べちゃったプリンも買ってくるわ。それでいいでしょ?」
「しゃーねーな。それで許してやるよ」
子猫同士のじゃれあいのような微笑ましい喧嘩は終わったようだ。卑弥呼が買い物に出掛けるのを見送り、部屋の中には柔らかな静けさが落ちる。
「まったく、おい邪馬人。卑弥呼のじゃじゃ馬はどうにかなんねぇのか。あれじゃあ嫁の貰い手ねぇぞ」
蛮は柳眉をしんなりと寄せてソファに座った。自分の左に並んだ肩は薄く、さらさらとした黒髪や、わずかに覗く項が眼に入り眦が下がる。
「大丈夫だ。嫁に出す気はない」
「シスコンが」
「いや。蛮もいるからシスコンでブラコンだ」
「こんな兄貴は嫌だ」
「ああ。そうだよな。兄貴じゃなくて恋人だからな」
「黙れ変態」
変態とは心外だ。ただ愛しているのが妹と自分より年下の同性であるだけだ。
「あーあ。俺のプリン、せっかくとって置いたのによォ」
「ははっ。今度から名前書とくんだな」
「名前だァ?」
サングラスの奥から大きな瞳が睨めつける。そんな表情に咽喉が鳴るのは、決して自分が惚れているだけではない。
陶器のような白皙は触れれば吸い付くように滑らかだ。
妖しく煌く夢幻の眼は青とも紫とも見える不思議な色。
キツイ言葉を吐き出す唇も、そこから覗く紡ぐ舌も、誘うように紅い。
休日で、自分たち以外には誰も居ない。卑弥呼はまだ帰ってこないだろう。
こくりと一つ、唾を飲み込む。
少しくらい、手を出しても構わないじゃないか?
目下惚れている相手を目の前に、何も手を出さないほど枯れてはいない。笑顔の下に欲を隠して、せいぜい常識ある大人を振舞う。
「そうだぞ? 自分のモノには名前や印を書くんだよ。それが人の目にさらされるならなおさらな」
「そういうもんなのか?」
疑い半分の声と視線に、それが常識だと頷く。蛮は知識は豊富だが、生活の常識には少々疎い。日本に来てから誰かと触れ合うような生活は送っていなかったのだろう。それが常識だといえば疑いながらも耳を傾ける。擦れているようで純粋。だから自分のような悪い男に引っかかるのだ。
「ああ。例え持ち主がそこにいなくても」
「ちょ、邪馬人?」
傍らの右腕を引き寄せる。この腕のどこからあんな力が出るのだろうかと思う細腕。引き寄せられる力のままに、その身体は邪馬人の胸に入ってくる。
「それが誰かモノか分かるように」
「おいっ! 邪馬人!」
抵抗する身体に左腕を回す。抱きしめた腰は乱暴にしたら壊れそうなほど細い。まだ丸みの残る顎からすんなりと伸びる首筋に顔を寄せる。ほのかに甘い匂いがするのは気のせいか、それとも蛮が持つ匂いなのだろうか。どちらであれ、その匂いは脳を甘く痺れさせる。
「はっきり、くっきり」
「っあ、っ」
がりり。
「自分のモノだって分かるように」
噛み付いたのは、ひくりと動く咽喉元。襟がある服を着ても隠れない絶妙な場所に淡く色づき、ほんのりと血の香りがする、所有のシルシ。
「忘れるなよ?」
名前を書くことも。
シルシを付けることも。
お前が俺のモノであることも。
「分かったか? 蛮」
至近距離。眼に映る顔は薄紅に染まっていて、これこそまさに匂い立つような色香だと、僅かな距離をゆっくりと縮めていく。
ふくりとした唇まで、残り五センチ。
四、三、二…と距離が無くなり、残り一センチとなったとき。
「俺はッ、お前のモンに、なった憶えはねェッ!!」
「ぶはっ!」
触れ合う寸前の唇がわななき、右頬に強烈な左ストレートが入る。当然蛮を拘束していた手は離れ、そのまま素早く距離を置かれた。殴られた頬を擦りながら蛮を見れば、薄紅の顔はそのままに、やけに据わった眼で睨みつけられた。
「けっ! ザマァみやがれ!」
「まったく、お前は卑弥呼以上のはねっかえりだな」
「殴られてニヤけてんじゃねェ!」
マゾかと言われ中指を立てられた。子猫のような威嚇は愛らしいが、その悪態はなかなか辛辣だ。
「マゾじゃねェよ。ただ惚れた相手が何をしても、可愛いって思うだけだ」
「……一番タチ悪ぃじゃねぇかッ!」
「愛が深いんだよ」
おそらく、蛮が何をしても自分は許すのだろう。自分の傍に居る限り、他の人間のモノにならない限り。
この感情は恋というにはあまりに強く、愛というにはひどく歪だ。
「まっ、これを機に名前を書く習慣を身につけるんだな」
伸ばした手で形の良い頭を撫でる。さらさらとした黒髪をわざとかき回すように撫でれば、掌の下の顔は少々ムッとしているが、黙ってそれを受け入れている。
ああ。蛮に己の中身を知られてはいけない。知られてしまえば、凶暴な中身はきっと、彼を傷つける。
だから、今は全てを覆い隠して笑うのだ。
「……全く、どうしてくれんだよ。この痕。絆創膏じゃ隠せねぇし、包帯巻くしかねぇじゃねぇか」
それはそれでソソるとは心の内でとどめておいて、お詫びにとその首に包帯を巻いてやる。首輪をしているようだと思っても声には出さない。全力で引かれる真似はしない。ちょうど巻き終わったとき、玄関が開く音がした。
「ただいまー」
「おっ! 俺のプリン!」
「ちゃんと買ってきたわよ」
買い物袋を下げて帰ってきた卑弥呼に駆け寄る背中を黙って見送る。そしてまだ熱が冷めない頬を擦りながらふと気が付く。
「右腕じゃなかったな」
右腕ならば邪馬人の拘束など簡単に振り払えただろうに。殴る威力もあるだろうに。
それに気が付いて頬が緩むのは至極当然と言うもので。
「あれ? 蛮、どうしたのその首」
「あー、虫に刺されて掻きすぎた」
「ふーん? あんまり触っちゃ駄目よ? あっ、あとプリン三つあるけど一人一つだからね!」
「わかってるよ」
そっけなく答えながらも蛮の声はご機嫌だ。いそいそと買い物袋からプリンを取り出し、足早にソファに戻ると早速食べ始める。キッチンで買い物の片づけをしている卑弥呼が首を傾げた。
「あれ兄貴も。その頬どうしたの? 腫れてるけど」
「ああ。あれだ、愛のシルシ」
「おいっ、卑弥呼! テメェ俺のプリン食っただろっ!」
「アンタのだって知らなかったのよ! プリン一個でカリカリするんじゃないわよ、小さい男ね」
「ああっ!? 貧乳のお前が乳製品食ったって乳はでかくなんねぇぞ!」
「ぬぁんですってぇ!」
うん、平和だ。妹と最近出来た新しい家族とのやり取りを眺めながら、上機嫌で煙草を吹かす。
己の家庭で平和を見出す者が一番幸福な人間である。偉大な詩人の言葉はまさしく真実だ。
リビングのソファに座りながら、リビングからそのまま続くキッチンの二人を眺める。言い合いの矛先はいつの間にか自分に向かっていて。
「まったく、兄貴! 兄貴も蛮に何とか言ってよ!」
「何言ってんだよ! 邪馬人も卑弥呼が悪いと思うだろう!?」
「いやぁ、二人が俺を奪い合うなんて嬉しいなぁ。俺は二人とも愛してるぞ!」
「「誰が奪い合うかっ!」」
心からの宣言に、双方から鋭い突っ込みが入った。いや、殴られないだけ良い。例え殴られたとしても、それはそれで可愛らしいと思うが。
「あー、何か馬鹿らしくなってきた。蛮、あたし今から買い物行くから、食べちゃったプリンも買ってくるわ。それでいいでしょ?」
「しゃーねーな。それで許してやるよ」
子猫同士のじゃれあいのような微笑ましい喧嘩は終わったようだ。卑弥呼が買い物に出掛けるのを見送り、部屋の中には柔らかな静けさが落ちる。
「まったく、おい邪馬人。卑弥呼のじゃじゃ馬はどうにかなんねぇのか。あれじゃあ嫁の貰い手ねぇぞ」
蛮は柳眉をしんなりと寄せてソファに座った。自分の左に並んだ肩は薄く、さらさらとした黒髪や、わずかに覗く項が眼に入り眦が下がる。
「大丈夫だ。嫁に出す気はない」
「シスコンが」
「いや。蛮もいるからシスコンでブラコンだ」
「こんな兄貴は嫌だ」
「ああ。そうだよな。兄貴じゃなくて恋人だからな」
「黙れ変態」
変態とは心外だ。ただ愛しているのが妹と自分より年下の同性であるだけだ。
「あーあ。俺のプリン、せっかくとって置いたのによォ」
「ははっ。今度から名前書とくんだな」
「名前だァ?」
サングラスの奥から大きな瞳が睨めつける。そんな表情に咽喉が鳴るのは、決して自分が惚れているだけではない。
陶器のような白皙は触れれば吸い付くように滑らかだ。
妖しく煌く夢幻の眼は青とも紫とも見える不思議な色。
キツイ言葉を吐き出す唇も、そこから覗く紡ぐ舌も、誘うように紅い。
休日で、自分たち以外には誰も居ない。卑弥呼はまだ帰ってこないだろう。
こくりと一つ、唾を飲み込む。
少しくらい、手を出しても構わないじゃないか?
目下惚れている相手を目の前に、何も手を出さないほど枯れてはいない。笑顔の下に欲を隠して、せいぜい常識ある大人を振舞う。
「そうだぞ? 自分のモノには名前や印を書くんだよ。それが人の目にさらされるならなおさらな」
「そういうもんなのか?」
疑い半分の声と視線に、それが常識だと頷く。蛮は知識は豊富だが、生活の常識には少々疎い。日本に来てから誰かと触れ合うような生活は送っていなかったのだろう。それが常識だといえば疑いながらも耳を傾ける。擦れているようで純粋。だから自分のような悪い男に引っかかるのだ。
「ああ。例え持ち主がそこにいなくても」
「ちょ、邪馬人?」
傍らの右腕を引き寄せる。この腕のどこからあんな力が出るのだろうかと思う細腕。引き寄せられる力のままに、その身体は邪馬人の胸に入ってくる。
「それが誰かモノか分かるように」
「おいっ! 邪馬人!」
抵抗する身体に左腕を回す。抱きしめた腰は乱暴にしたら壊れそうなほど細い。まだ丸みの残る顎からすんなりと伸びる首筋に顔を寄せる。ほのかに甘い匂いがするのは気のせいか、それとも蛮が持つ匂いなのだろうか。どちらであれ、その匂いは脳を甘く痺れさせる。
「はっきり、くっきり」
「っあ、っ」
がりり。
「自分のモノだって分かるように」
噛み付いたのは、ひくりと動く咽喉元。襟がある服を着ても隠れない絶妙な場所に淡く色づき、ほんのりと血の香りがする、所有のシルシ。
「忘れるなよ?」
名前を書くことも。
シルシを付けることも。
お前が俺のモノであることも。
「分かったか? 蛮」
至近距離。眼に映る顔は薄紅に染まっていて、これこそまさに匂い立つような色香だと、僅かな距離をゆっくりと縮めていく。
ふくりとした唇まで、残り五センチ。
四、三、二…と距離が無くなり、残り一センチとなったとき。
「俺はッ、お前のモンに、なった憶えはねェッ!!」
「ぶはっ!」
触れ合う寸前の唇がわななき、右頬に強烈な左ストレートが入る。当然蛮を拘束していた手は離れ、そのまま素早く距離を置かれた。殴られた頬を擦りながら蛮を見れば、薄紅の顔はそのままに、やけに据わった眼で睨みつけられた。
「けっ! ザマァみやがれ!」
「まったく、お前は卑弥呼以上のはねっかえりだな」
「殴られてニヤけてんじゃねェ!」
マゾかと言われ中指を立てられた。子猫のような威嚇は愛らしいが、その悪態はなかなか辛辣だ。
「マゾじゃねェよ。ただ惚れた相手が何をしても、可愛いって思うだけだ」
「……一番タチ悪ぃじゃねぇかッ!」
「愛が深いんだよ」
おそらく、蛮が何をしても自分は許すのだろう。自分の傍に居る限り、他の人間のモノにならない限り。
この感情は恋というにはあまりに強く、愛というにはひどく歪だ。
「まっ、これを機に名前を書く習慣を身につけるんだな」
伸ばした手で形の良い頭を撫でる。さらさらとした黒髪をわざとかき回すように撫でれば、掌の下の顔は少々ムッとしているが、黙ってそれを受け入れている。
ああ。蛮に己の中身を知られてはいけない。知られてしまえば、凶暴な中身はきっと、彼を傷つける。
だから、今は全てを覆い隠して笑うのだ。
「……全く、どうしてくれんだよ。この痕。絆創膏じゃ隠せねぇし、包帯巻くしかねぇじゃねぇか」
それはそれでソソるとは心の内でとどめておいて、お詫びにとその首に包帯を巻いてやる。首輪をしているようだと思っても声には出さない。全力で引かれる真似はしない。ちょうど巻き終わったとき、玄関が開く音がした。
「ただいまー」
「おっ! 俺のプリン!」
「ちゃんと買ってきたわよ」
買い物袋を下げて帰ってきた卑弥呼に駆け寄る背中を黙って見送る。そしてまだ熱が冷めない頬を擦りながらふと気が付く。
「右腕じゃなかったな」
右腕ならば邪馬人の拘束など簡単に振り払えただろうに。殴る威力もあるだろうに。
それに気が付いて頬が緩むのは至極当然と言うもので。
「あれ? 蛮、どうしたのその首」
「あー、虫に刺されて掻きすぎた」
「ふーん? あんまり触っちゃ駄目よ? あっ、あとプリン三つあるけど一人一つだからね!」
「わかってるよ」
そっけなく答えながらも蛮の声はご機嫌だ。いそいそと買い物袋からプリンを取り出し、足早にソファに戻ると早速食べ始める。キッチンで買い物の片づけをしている卑弥呼が首を傾げた。
「あれ兄貴も。その頬どうしたの? 腫れてるけど」
「ああ。あれだ、愛のシルシ」