いたちごっこ
恋が始まるには、
ほんの少しの
希望があれば十分です。
―スタンダール
春、始まりの季節。
光溢れる、満開の桜並木を、少女と男は歩いていた。
「先生。今、死にたいですか」
「ええ、死にたいです。教壇という矢面に立たねばならない日々が再びやって来てしまった…!今朝も中央線は止まりました!明日には私も仲間入りしていることでしょう!ああ!絶望し」
「そうですよねぇ!こんな素晴らしい春の日に、自ら命を絶とうなんて人、いるわけありません!」
「…話を聴いて下さい」
「え?」
―相変わらず、この人は嘘を吐くのが下手だ。
「ふぅ…。貴女は、今この瞬間、生きていることが堪らなく嬉しい。全くもって、生を謳歌している。そうですね」
「ええ、もちろんです!これから始まる新学期への希望に、膨らんだ胸がはち切れそうです!」
「そうでしょう、そうでしょう」
―相も変わらず、この娘は嘘を吐くのが下手だ。
あ、桃色ガヴリエル!
くるくると笑いながら、少女は駆けて行く。
男は歩調を早めることなく、鷹揚に歩みを進める。
桜は暖かな風にふわりふわりと舞い落ち、一帯をピンクに染め上げる。
「初めて会った時、先生はここで死のうとしていました」
「そうでしたっけ」
「それを私が止めたんです」
「そんなことも、あったかも知れませんね」
ぴたり。
向き直った少女は、あの日と何一つ変わらぬ笑顔で、男に告げた。
「先生。私、先生のことが大好きです。愛しています」
ぴたり。
立ち止まり、男もあの日と何一つ変わらぬ笑顔を、少女に浮かべた。
「奇遇ですね。私も、貴女のことが大好きですよ。愛しています」
二人の距離は五十センチメートル。これも変わらない。
恋人には必要のない、五センチメートル。
「嘘吐きですね、先生」
「その言葉、そのまま貴女にお返しします」
にこり、と。
二人は再び、歩き出す。
「はい、桃色係長」
「五百円…?」
「値上げです」
「値上げですか」
では、ありがたく受け取っておきます。
桜並木を抜ければ、もう学校だ。
あの騒々しい毎日が、繰り返される。
今までの嘘も、この先の嘘も、全部全部、飲み込んで。
「これからもずっと、よろしくお願いしますね。桃色係長」
「こちらこそ。ところで、昇進は無いのでしょうか」
「桃色将軍、とか?皇帝が良いですか」
「…辞退させて頂きます」
それでも、嘘吐き同士、永遠の片想いに興じるのは、ちょっと洒落ているだろう。
―私達は、これからもずっと、一緒なのだから―
『いたちごっこ』
作品名:いたちごっこ 作家名:璃琉@堕ちている途中