朝の儀式
赤みがかった視界のなか、ゆらゆら、泡のような光の輪が揺れ、消えていく。
まぶたを開くと、カーテンの隙間から漏れた陽が天井に揺らめいているのが見えた。
窓の外からはかわいらしい鳥の囀りが聞こえ、明るい光は午前中の好天を予感させて好ましい。
イギリスは一度目をこすって、大きく伸びをしようと胸の上で組んでいた腕をほどいたところで、傍らの存在に気づいた。
肘でアメリカの腕を突いてしまったけれども、彼はぴくりともせず、ぐっすり眠っている。しー、と言いかけてイギリスは自分の口を押さえた。小声でも起こしてしまうのはかわいそうな気がしたので。
腕だけ横のテーブルに伸ばして、目覚まし時計を取る。
七時前。朝食の仕込みは昨日の晩に出来ているし、今日はふたりとも休暇だから、もう少しだけあたたかいベッドでまどろんでいてもいい。どうしようか数秒だけ考えて、自分の吐息が真っ白にくもっているのを見、結局ベッドにもぐりこんでいるのを選んだ。
隣のアメリカは枕と格闘でもしているのか、横向きに枕をがっしりと捕まえたまま起きる気配はない。パジャマはイギリスが用意していたものを見るなり、爺臭い、とばっさり切捨てられたので、結局彼は真冬にTシャツ一枚で寝ていた。
毛布から出ている彼の腕が寒く見えて、風邪でも引かせないようにと夜中に何度か起きて毛布を掛けたのは覚えている。また肩が出ているので、仕方ないと思いながらも、そっと掛け直してやった。
それから、アメリカの顔をじっと見つめ直す。
寝顔は変わらない。かわいい、と本人に伝わると本気で怒るので、たとえ本人が寝ていても心の内に留めておく。
さらさらとした手触りの髪を撫でたくなったけれども、起こさないように見るだけにしておいた。寝癖のついたはちみつ色の髪に、それよりは薄い色のまつげ。呼吸のたびに、跳ね返った髪が揺れて、まつげの先が震える。空色の目は、しっかり閉じられて今は見ることができない。
枕に頭が半分うずまっているせいか、寝息はとても静かだ。静か過ぎて心配になってきたので、頭を近づけて寝息に耳をそばだてる。すやすやと、安らかな吐息が聞こえる。
耳で確かに確認したのに、聴覚だけだと心もとない気がして、今度はアメリカに擦り寄って、胸の辺りに手を軽く置いた。
起こさないよう気遣いながら、触れるか触れないかのギリギリを手のひらで探っていく。シャツ越し、熱いくらいの体温と、大きく脈打つ心臓の鼓動。
一回、二回、三回。同じリズムで刻まれていく。動いてる、と、ほっと胸をなで下ろした。それから、寝ている彼を起こさぬように額だけ胸に預けて、子どもみたいな体温と香りにつつまれたまま、じっとしていた。
彼は隣に寝ているし、彼の心臓は休まず動いているし、静かではあるけれども寝息だって立てている。大丈夫、と、イギリスはひとつ深く息を吐く。これが現実。
本当に?
確かめてみたいけれども、自分の頬は抓まない。もし、つねった頬が痛くて夢から覚めてしまったら、きっと自分は立ち直れない。だから、泣いても声が漏れないように鼻の先をぎゅっと押さえる。鼻の奥がつんと痛んで、ああこれは現実なのだ、と、ようやく安心する。
結局、涙はにじんでしまったけれども。目元をパジャマの袖で乱暴にぬぐって証拠を隠滅した。
また泣いていたのかい、と呆れられないように。バカ、とののしるだけではきっと彼の目は誤魔化しきれないから。
何か嫌な夢でも見たのかい、と気遣われないように。これから先、また今日のような日が来ると思えなくて、いつも負の想像に怯えているだけなのだから。
どうしたの、と勘ぐられないように。その理由が彼のせいだと悟られぬように。
最近、特に感情をコントロール出来ていない気がする。なんでもないことで泣いてばかりだ。アメリカが隣に居ることが当然になってから、特に。ひどく。
毛布から這い出て、アメリカの顔を上から覗き込む。もう一度心臓の鼓動を直接手のひらで感じようと手を伸ばしたところで、アメリカのまつげがぴくぴくと震えた。顔がまぶしそうに歪められて、ゆっくりとまぶたが上がる。
「……イギリス?」
寝ぼけた掠れ声がイギリスを捕まえようとする。
「起こしちまったか?」
アメリカは目元を何度もごしごし拭っている。それから、大きな手の下から空色の目があらわれた。アメリカは焦点をあわせようと目をすがめ、イギリスの表情を確認してから唇を笑ませた。なんとか誤魔化せたようだ。
「んー……何時だい?」
「七時前。あ、もう七時になったか」
アメリカは枕に突っ伏して唸ったあと、顔をあげて睨んでくる。
「……もー……早い、早いよ、おっさんはこれだから! だらだら寝てられるのが休日なんじゃないか……」
「早くねーし、お前はいつもだらだらしてんだろ。……ほら、まだ寝てろよ」
目を無理やり瞑らせようと手のひらをかざすと、逆に両手に捕まってしまった。体温が近すぎる。強い力で皮膚と皮膚が貼りつく、現実から逃げられないほどに。熱くて、痛い。
「もう目が覚めちゃったんだぞ。君は起きて何してたのさ」
確かめてたんだ、確かめて泣いていたんだ、といえるわけもなく。アメリカの手のひらがあたたかくて、また泣きそうだ。
「何だい? 俺の寝顔にでも見蕩れてたのかい?」
くすくすと、さもそうすることが当然だろう、という憎たらしい顔をする。
それ以上だよ、と声にはせずに返す。
いがみ合って、ののしり合って、武器を手に離れていった子が、またこうして隣で眠っていてくれるのは奇跡だと思う。兄たちにすら要らないと忌み嫌われ続けた自分が、その奇跡を簡単に手にしていいものかどうか未だに迷うし、受け取って当然の奇跡だとも思えない。
手にした瞬間に消えてしまうのが常だった、やさしい奇跡。何かを犠牲に得る魔法のように、あとかたもなく消えてしまうものではなく、この手で触れられるもの。沁みる声。あたたかな言葉。体温のぬくもり。動き続ける鼓動。触れて、聞いて、見て、感覚として確かに確認できるもの。
頬を撫でられ、気まぐれな指がイギリスの鼻の先を抓む。
涙の出てくる前兆で、喉の奥がちりちり痛む。ひどく痛むから、ここは夢じゃない。自分が確実に存在していい場所だ。
アメリカが眩しいくらいの笑顔を向けて、ありふれた奇跡を囁く。
おはよう。とてもよい朝。
おはよう、おはよう、本物の朝だよ。
-end-