不如帰
ふと朝の空を見て思った。
雲ーつない、まるで水色の水彩絵の具を塗りたくった様な空。
何故、空を見て思い出したのだろうか。
洋菓子をとっておいた、なんて事、すっかり忘れていた。
暖かくも寒くもないこの頃。
六月の頭。そろそろ衣替えをしなければならない。
着物も、冬物から洗える夏物へと変えなければならない。
・・・それより、洋菓子。
何故か一番最初に洋菓子を開けなければいけない気がする。
戯れていたぽち君をそのままに、台所へと足を急がせた。
どこに置いたか。
確か食器棚の奥にしまったような気がした。
大切に保存していたはず。
誰から貰ったかは、もう忘れてしまった。どんな物だったのかも、さっぱり消えていた。
洋菓子の箱は随分奥の方にあった。
普段、和菓子しか口に入れない私に、洋菓子は少し苦手だった。
本当に何故、急に食べたくなったのだろうか。
ほこりまみれとなった箱をぱたぱたと掃う。
かなりの大きさだった。
一人で食べるには、胃袋がもたないだろう。ぽち君にはあげられないし。
そこで頭に浮かんだのが、中国さんの顔だった。
あの眩しい、にっこりと白い歯を見せるような笑顔。
私にとって太陽同然。笑顔が眩しいとは、このことだ。
中国さんなら、この量、あっという間にぺろりと平らげてしまうだろう。いや、足りないほどではないか?
招こう。電話して、一緒に菓子を食べようと。
私は菓子の箱を抱えながら、黒電話がある所へ向かった。
電話番号は、頭に入っていた。
何度も電話をかけて覚えたのではない。自ら記憶に叩き込んだのだ。
いくら私が年をくっても、これだけは忘れまいと心に刻んだ。
黒電話を手にしてから五分経つ。
中国さんは、電話には出なかった。
もう何度目かわからないコールが右耳を刺激する。
諦めて受話器を置いた。
仕事でいそがしいのか、寝ているのか、はたまた、どこかへ遊びに行っているのか。
いずれにしても、私は機嫌を損ねた。
どうして私が必要とする時、彼はいつもいないのだろうか。
昔からそうだった。戦争をしている時も、そうだった・・・・。
悲しいのか寂しいのか怒っているのか、よくわからない。
いつもならイギリスさんやアメリカさんを呼ぶのだが、今日はどうしてもそんな気分ではなかった。
中国さんと食べられないのなら、一人で頂こう。
今日の私は、本当におかしい。何か悪いものでも食べただろうか?
私は踵を返して台所へお茶を入れに行った。
台所の暖簾をくぐると、ぽち君が足元をぐるぐると回りながら、まとわり付いてきた。
そしてわん、と一鳴き。
「ぽち君?ダメですよ。これはあげられません。」
「わん!」
違う、とでも言っているように吠えた。
しばらく回っていたぽち君も足元でごろんと腹を見せるように横になった。
撫でろ、といっているんだ。
私は箱を置いてしゃがみ込み、ぽち君の腹を撫でた。
フワフワとした毛並みが気持ちよい。
撫でられているぽち君も気持ちよさそうにしていた。
「慰めてくれているのですか?有難うございます。」
わん、とひと鳴きしたぽち君は、ごろりと転がりまた立ち上がった。
トコトコとしたカワイイ足取りでそのままどこかへいってしまった。
動物には、人の気持ちが伝わるらしい。
何故わかるのだろうか?
表情?いや、態度?
いずれにせよ、とても人間には真似できないようなものだった。
「ありがとう。本当に有難うございます、ぽち君。」
よいしょ、と掛け声をかけながら立ち上がる。
少し足が痺れたが、気にも留めなかった。
まさか犬にお礼を言うとは思ってもいなかった。
さてと、と呟いて私は食器棚の中に入っているお茶の葉を取り出した。
・・・・・・
お盆の上に乗せたお茶とお菓子の箱を持ってお茶の間へと足を運んだ。
と、足をふと止めた。
そういえば、ぽち君はどこへ行ったのだろうか。
あれから随分静かだ。
どこかへ行ったとはいえ、いつも鳴き声は聞こえる範囲にはいるが・・・
日向ぼっこでもしているのか、餌を食べているのか。
まあ、いい。
またそのうち現れるだろう。深く考えずに、再び足を進めた。
_________私はそのまま茶の間の入り口で固まってしまった。
接着剤を踏んだように、ぴったりと、そこから一歩も踏み出せずに固まった。
緑色で飾られた和風の庭。
花はほとんど咲いていない。主に木々が植えられているそこに、
___________彼、中国さんは・・・・・立っていた。
燃えるような紅い服に身を包み、絹のような美しい髪をなびかせていた。
後姿の彼は、身体を柔らかくゆっくり揺らしながら、異国の言葉で唄を歌っていた。
ゆっくりとしたリズムと少し高い音程から、子守唄だとわかる。
一体誰に唄っているのだろうか?
「・・・・中国・・・・さん?」
もう少し唄を聴いていたかったが、たまらなくなり、彼を呼んだ。
これは私が見ている幻か?偽りか?幻覚か?
夢だったら覚めて欲しい。夢だったらなんという悪夢!
ありえない幸せを見せられる以上、恐ろしく怖いものはない。
しかし、私が見ている彼はこちらを向いた。
視線を落とすと、彼の腕の中には、ぽち君がいた。
毛玉が少し上下していることから、寝ているのだとわかる。
なんと安心しきった顔で寝ているのだろう。
飼い主の私より懐いているかもしれない。
「日本・・・」
中国さんが、私の名を呼ぶ。
嘘・・・うそだ。本当に、ほんとうに中国さんなのだろうか。
彼はにっこりと笑うと、どうしたあるか、と呟いた。
「幻でも見ているような顔して・・・・」
体が言うことを聞かない。
何故今、自分が硬直しているのかもわからない。
嬉しいのか?今、私は嬉しいと感じているのか?
わからない。私のことなのに。
どうして・・・・?
と、腕にかかっていた重みが無くなったのに気がついた。
次の瞬間には、身体に温もりが伝わってきた。
落ち着く、優しい温かさ・・・・。
これは・・・・人の体温だ。
私は、中国さんに抱きしめられていた。
不思議な事に、今まで考えて全てのものが、頭から抜け出ていき、真っ白になった。
「日本、我はここにいるある。」
幻でも、悪夢でもない。
現実。これは現実だ。
私は中国さんに抱きしめられていて、中国さんの体温がじかに伝わってきて、・・・。
あぁ。
「中国さん。」
私は彼の背中に腕を回して、ぎゅっと力を込めて抱きしめてみた。
・・・・中国さん、中国さんだ。安心する。落ち着く。癒される・・・・。
「中国さん」
再び彼の名を呼んでみる。
「何あるか・・・」
小さく返事が返ってくる。
「お菓子を食べませんか?洋菓子です。緑茶を飲みながら。たくさんあって、私一人では食べきれないのです。」
「洋菓子あるか、いいあるね。」
「その後は・・・・」
「ん?」
「その後は、」
「何するあるか?」
「中国さん」
「何あるか?」
私は中国さんをゆっくりと腕から放し、もう一度引き寄せ、そのまま優しく唇を重ねた。
(終)