apple
「んー、そうだなー。やっぱ定番のアップルパイ?」
キッチンの奥から流れてくるのは、甘い林檎と豊かなシナモンの香り。
覗いて見たわけではないが、今、コンロの上には大きな琺瑯の鍋が火にかけられており、その鍋の中には、ぐつぐつと大量の林檎が煮詰められている。
売り物として出すには少々傷みが多いという理由で避けた紅玉を、誰あろう葉月自身がこの家まで運んできたのである。
「パイ生地は、前に作り置きしといたのが冷凍してあるし、すぐできるよ」
コンロの前に立つ幼馴染みの背中を眺めつつ、葉月は椅子の背もたれの上に腕を乗せる。
無駄に愛想の良い面相も、無駄に高い背丈も長い手足も、この男を評価する基準としては大した意味を持たない。少なくとも、葉月自身にとっては。
「どうせパイが焼けたら真っ先に持ってくのは、うっくんトコなんでしょ」
「心配しなくても、紅玉のお礼に、葉月の分もちゃんと焼くってば」
「後回しする程度の感謝の気持ちなんてたかが知れてるっつーのよ。このホモ」
もう一人の幼馴染みが聞いたら間違いなく憤慨するだろうが、林檎を煮詰めている鍋の番をしながら、その男はわざとらしく困ったような声音を作る。
「えー、だってしょうがないじゃん、家のオーブンだと二個は一緒に焼けないんだもん!」
「二十歳過ぎた男が可愛こぶって許されるのは二次元に限るんでマジやめてください」
ノンブレスで棒読みした台詞に、目の前の幼馴染みは、傷つきましたと精一杯主張するかのように色々と喚いていたが、葉月にはそれに耳を傾ける気は欠片もなかった。
それよりも気になるのは、自分がここまで運んできた紅玉の行く末である。
葉月は振り返らない背中に向かって呼び掛けた。
「ねー、皐月ー」
「何?」
「最初に焼いたアップルパイは、ホモに免じて譲ったげるからさ、私の分はアップルパイにタルトタタンもつけてよ」
「別に構わないけど、………それ、全部一人で食べる気じゃないよな?」
ようやくこちらを振り返ったかと思いきや、大真面目な顔で訊ねてくる。
ここが他人の家で、相手が火を扱っている最中でなければ、とりあえず手近のクッションを顔面目がけて投げつけていたに違いない。
「女子会でお茶するときに皆で分けるのよ」
「え、ちょっと待って、女子会って……――――」
思わず絶句してしまったその表情に、葉月は少しばかり溜飲を下げる。
そう。女子会には、この男の姉であり、如月洋菓子店のパティシエである如月も参加しているのである。
とにかくこの幼馴染みは、姉に頭が上がらない。
特に菓子作りに関しては、下手なものを出したら二度と立ち上がれないレベルで徹底的にやり込められるため、姉の前に自分で作ったものを出すときは、それはそれは大層な覚悟が要るものらしい。
「まあ、そういうわけだから」
葉月はそれらの事情を知ったうえで、にっこりと微笑む。
「まずはさっさと愛しのうーちゃんのためのアップルパイを焼くといいわ」
幼馴染みは拗ねたように口を尖らせ、はづきのいじわる、とぼやくと、再びコンロに向かう。
葉月は椅子に座ったままその背中を眺め、くすくすと声を忍ばせて笑った。