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ばらの下

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仕事の都合で、フランシス宅を訪れる用事が出来た。ただでさえこのところの会議で、元弟である若き超大国との言い争いに頭を痛めていたアーサーは、これ幸いと腐れ縁の相手に鬱憤をぶつけることにした。こんな時、一片の気遣いも要らない相手は楽でいい。
 そんなわけで、いっそ晴れやかな気分でフランシス宅を訪れたアーサーだったが、予定通りの口喧嘩と、その合間の打ち合わせを順調に消化し終わり、大体の話がまとまると、少しは気分もほぐれてきた。もてなし好きのフランシスが時計をちらりと見て、まあ帰る前にお茶でも飲んでいけばいいんじゃないの、と遠まわしに勧めた。長時間喋りっぱなしで―――主にはお互いに対する悪口雑言の幾多のバリエーションにより―――喉も枯れたことだしと、アーサーはいつもは叩くであろう憎まれ口を引っ込める気になり、素直に頷いた。
「いいな。特別に淹れさせてやる」
「…………おまえって…………どこまでも期待を裏切らない坊ちゃんよね……」
 これだけ鷹揚に頷いたのに、随分な言われようだ。
 アーサーは腕を組み、尊大に催促した。
「うるせーな、めちゃくちゃ喉が乾いてんだよ。さっさと淹れてこい」
「なんなのこのこ、淹れて貰う側のくせに! 大体、いつもはフランス紅茶なんて邪道だとか文句言うくせにさ〜」
 ぶつぶつ言いながらも、フランシスは気に入りらしい良い匂いの茶葉を取り出し、丁寧に淹れ始めた。こと飲食に関することについて、この男が手を抜いた例はない。それがたとえ、犬猿の仲かつ、つい先ほどまで罵りあっていた相手に出すものでもだ。
 フランシスの手つきは、ぞんざいを装っても十分に丁寧であり、彼らしく流麗だった。まったく器用さだけは右に出る者のいない男だ、とアーサーは胸中でひねくれた称賛をする。
「は〜い坊ちゃん、出来ましたよっと」
 さりげなく可憐な花柄の施された、洒落たカップを出してくるところがフランシスらしかった。おう、とアーサーは無愛想に受け取る。いちいち微笑んで礼を言い合うような間柄ではない。フランシスも気にした様子もなく、反対側の席についた。
 テーブルの上には、礼儀のように、揃いの柄の砂糖壺が置かれている。繊細なその中には、どうやら薔薇を象った、愛らしい形の固形砂糖が入っているようだった。ふと気になって、アーサーはそれを引き寄せた。使用するためではない。何かを思い出しそうだったからだ。

 アーサー、これ、このままじゃ苦くて飲めないんだぞ!

 透き通った子どもの高音が、不意に遠くから聞こえた。仕方ないな、と彼の頭を撫でた男の、困ったような、それでいてどこか擽ったそうな声も。
 記憶の中で男が言う。じゃあ、砂糖を入れてやるよ。幾つがいい、アルフレッド。
 その男はくすんだ金髪と、みどり色の目をしている。その男は童顔で、はにかんだような、不慣れなような微笑を浮かべている。その男は彼だ。ずっと昔、初めて兄と呼ばれる立場になった頃、何度もくりかえした場面。
 その子が笑う。ありがとう、アーサー。嬉しそうに名前を呼ばれる。俺はきみが大好きだよ。

 男は、奇妙な言葉を聞かされたように硬直する。まるで木偶人形みたいに。彼は少し困りながら、熱い紅茶の中で砂糖を溶かす。子どもの舌に合わせて、ひとつ、ふたつ、みっつ。適度に冷めたのを見計らって、大ぶりのカップを手渡す。喜んでそれを受け取った小さな手が、瞬く間に成長する。 
 いつの間にか、冷たい雨が降っている。カップは消え失せ、もう子どもではない青年の掌には、黒く光る銃が握られている。銃口の先で、男は泣いている。混乱し、今にも崩壊してしまいそうな、大切なものに怯えながら。
 彼は戸惑って叫ぶ。なあ、さっき、なんて言ったの? 雨音が酷くて、おまえの声が聞こえないんだ。 
 どうか言って、もう一度! きっと大事なことだったのに! 青年は答えず、銃の撃鉄を起こす。雨は激しくなり、リフレインする言葉は雷鳴のように、彼らふたりの胸を貫く。
 俺はきみが大好きなんだ。

 白昼夢は唐突に覚め、アーサーは瞬きした。彼はフランシスの趣味のいい居間の椅子に腰かけており、部屋の主は、向かいの席でお茶うけの焼き菓子を齧っている。主ご自慢のフランス紅茶は、柔らかい湯気を立てている。彼のお手製であろう焼き菓子は、上品な葉っぱの形。自分の手で引き寄せた砂糖壺が、中途半端に蓋を開いたまま目の前にあった。時間はまるで、少しも過ぎていないようだ。
 アーサーは砂糖壺に指を差し入れ、固形砂糖をひとつ、つまみあげる。ころころと指先で転がす。幾つ欲しい。甘くしてやるよ。ひとつ、ふたつ、みっつ。アーサーはそれを目の高さにかざす。小さな子どもが欲しがって、こちらに伸ばすてのひら。
「おい、フランシス」
「ん?」
「これ、いるか?」
 指先でつまんだそれを、ぽろんと繊細なカップに転がり落とす。フランシスが、不思議そうにアーサーを見た。
「なに。砂糖?」
「俺の愛」
 はぁ? と眉をしかめるフランシスを無視して、アーサーは脳裏のどこかで、今も鳴りやまない、誰かの声に耳を澄ました。
 その声は問いかける。すっかり成長した青年の顔が、無垢な青い瞳とかぶる。記憶の中の、甘い匂いのする子ども。
 彼はアルフレッド、幸福の息子。私のいとしい男の子。かつて世界でいちばん、私を愛していた誰か。
 アーサーは瞼を下ろし、その皮肉な双眸を鎖ざす。その子の繰り返す問いは、今もアーサーの中で爪を立て、隠しておきたい何かを暴き続ける。

 アーサー、アーサー、お兄ちゃん。
 ねえ、俺を愛してたかい?

 愛? 愛、愛ね。美しい言葉。俺がお前に教えた最初の言葉。アーサーは自然と笑い声が零れてくるのを感じる。フランシスが眉をひそめたのがわかったけれど、一度始まった発作は、簡単には止まりやしない。喉にひっかかる笑いは溢れ、アーサーはついに、背凭れにひっくり返って笑い始める。
 幸福の中で、何度も何度も囁いた言葉。ああそうだ、愛してた。きっと、この世でいちばん愛していたよ。でもその愛は、さっき、紅茶の中で溶けて消えてしまったけど。

作品名:ばらの下 作家名:リカ