月の恋人
「隠れてしまったわね」
ひっそりと呟き、矢霧波江はデスクに浅く腰掛けた。
冷たい眼差しはほんの僅か、緩む。
「残念?」
「―それなりに」
クスリと零した笑みをひとさじ、デスクチェアに座る折原臨也は、彼女の淹れた紅茶に口をつけた。
それを横目に眺めつつ、波江は窓ガラスの向こう、厚く垂れ込め流れゆく雲の、そのまた向こう、間違いなく輝いているはずの満月を思った。
―――エクストラ・スーパームーン。
発端は、臨也の別人格であるクロムがとあるチャットルームで得た情報だった。
「今夜の話題はそれで持ち切りだよ」
「へぇ」
「君の泊まっているホテルの部屋からは、きっとよく見えるんじゃないか」
「そうかもね」
「―興味ない?」
パソコンのディスプレイから目を離さぬ上司に倣い、波江もまた、手元の書類の数字を電卓に打ち込みつつ、すげなく答える。
「どうせ貴方には関係のないことよ」
「そりゃそうだ」
―そうでなければならない。
心中に留め置き、代わりに彼女は言った。
「早く終わらせましょう」
けれど、二人が次に時間を確認したとき、時刻は既に三時半を回っていた。
作業の手を休めたわけでも、飛び込みの依頼が舞い込んだわけでもない。
ただただ、その瞬間、今夜の仕事の見通しがついたのだった。
「お疲れ様」
彼女を気遣い、そして少しだけ疲労の色を笑みに滲ませる臨也に、波江は珍しく自分から提案をした。
「紅茶を淹れるわ、一息つかない?」
壁にかかった時計の針は、今夜の月が、この惑星に、地球に最も接近するといわれている時刻をとっくに指し終わっていた。
満月は黒雲に覆われ、二人は同時に息を吐く。息遣いだけを、重ねる。
「君って、ロマンチストだよね」
「何ですって?」
「イベントとかアニバーサリーとか、どこ吹く風って顔しといて、毎回必ず期待するじゃない。つい五日、ああ、もう六日前になるか。君はやっぱり、朝から落ち着きなく、始終そわそわしていた」
「……………」
世間ではホワイトデーと呼ばれる日、確かに彼女は期待に、否、正確には一縷の望みに胸躍らせていた。
だが、豊満な胸に包まれた、希望という名の月長石は呆気なく、粉々に砕け散った。
「先月の十四日の為に用意したお手製のチョコレートとブランドもののハンカチは?結局渡せたの?」
彼女は答えない。答える意味がない。
臨也は全てを識った上で、敢えて尋ねているのだから。
「―でも、君は渡せなかったそれを、後生大事に仕舞ってあるんだ。ベッドサイドのチェストと、それから、君の心とやらに」
俺に寄越せば良いものを。満足したように一つ頷き、臨也はマイセンのカップの中身を飲み干す。
その様子を相変わらず横目に収めつつ、波江は見えない満月の行方に想いを馳せた。馳せつつ、努めて事務的に告げた。
「私には、貴方こそがロマンチストに感じられるわ」
「―――ああ」
ガチャリ。わざとはしたなく、小さな星をばら撒くように音を立てカップを置いた臨也は、事も無げに片眉を上げる。
「そうかも知れないな」
「え…?」
そこで初めて、波江は臨也を、臨也は波江を見た。
「何をうろたえることがあるんだい?波江、君が教えてくれたんだよ」
「そう、だけど」
紅と碧が、臨也と波江の眼差しが、重なる。
結んだ視線をほどくことなく、二人は知らず、その距離を縮めてゆく。
「だから、俺は人間を愛せるんだ。希代のロマンチスト、それが俺なんだ」
「……………」
「だから、人間なんてものに未だ、期待している」
―やめてよ!
―そんな表情(かお)、しないで!
思わず懇願しそうになるのを、すんでのところで乱暴に掴んだ陶器の底の紅茶と共に喉元から洗い流し、波江は吐き捨てた。
「っ…それなら、さぞかし残念でしょうね」
「そんなことないよ」
「!」
はっと息が震えた刹那には、デスクに乗せられた彼女の華奢な手に手が、彼の繊細なつくりの掌が重なっていた。
「俺には、君がいる」
堪えるように細められた紅い瞳は、それこそ、彼女に懇願しているようで。
波江はぎこちなく、悔しそうに、うなだれる。
「私は、月ってわけ…?」
「………最上級のね」
「どうすれば、良いの………。私は、貴方を…どう、扱えば………」
握られた手が、ひどく熱かった。
何度だって蘇ったはずの胸深くの月長石は、今度こそ、燃え尽きてしまったようだ。
「別に?いつもみたいにすれば良いんだぜ」
「………ずるいわ」
「そうだよ」
「出来ないこと、識っているくせに………」
見えぬ満月は、二人の意識から簡単に放り出される。互いに互いだけを、ひたすら網膜に焦がしつける。
重なり刺激し合った紅と碧の光は、差すことを忘れた金色のそれをも凌駕するような、眩く美しい、菫色の煌めきを生み出した。
「どうしたの、波江」
「どうかしたのよ、臨也」
心底可笑しそうに、でも、どこか哀しそうに、二人は微笑んだ。
微笑みながら、彼は膝に乗り上がる彼女の腰に両手を添え、彼女は彼の首に両腕を回した。
「君もようやく、堕ちる覚悟が出来たのかい?」
もう、視線の結び目は、こんがらがってしまっているだろう。
きっと、ほどけることは、ない。
「貴方(つき)の所為だわ………」
背骨を辿る指を、太股を探る指を、波江は赦した。
拙い誘いを、汚れなき誘いを、臨也は赦した。
重なる唇と、舌と、唾液に、陳腐なその台詞は絡め捕られた。
―ないものねだりなんだよ、俺達。
―とんでもない、ね。
―ロマンチスト冥利に尽きるな。
―だったら、せめて、これを頂戴。
―君が欲しいのなら、喜んで。
―これみよがしに揃いを二つ、嵌めたりしないで。
『ああ…ッ』
二つの熱が重なって、すっかり溶け合ってしまった頃、満月は再び姿を現した。
まるで祈るような形に組まれた二人の指を、そこを流れた涙色した光を、静かに金色が彩った。
『月の恋人』
作品名:月の恋人 作家名:璃琉@堕ちている途中