ルック・アット・ミー
まるでそれは水の中のようだった。海、というよりも水槽のような。限りある空間の中を私の身体は漂う。身体を血脈と共に駆け巡るのは音楽だった。重く響き渡るそれは心臓を揺るがし、鼓膜を震わせた。ああ、そうだ。これは恭介が好きだと言っていた曲だ。いつか弾いてみたいと寂しそうな横顔を見せた、あの時聞いていた曲だ。思い出した途端、恭介の影が目の端に映る。空席の目立つコンサートホールで恭介がバイオリンを弾いている。客は私の他にいない。彼は私だけの為に弾いてくれている。そして彼の音楽の良さを真に理解しているのも私だけだ。私たちはこのコンサートホールで二人きり。出来過ぎたシチュエーションに少し照れくさくなってしまう。
私を見て、私を愛してと願ったのを遠い昔の事のように思い出す。願いが叶ったのは最初の一度きりで、あとはもう泥のように溶けてなくなっていったけれど。私の本懐は何だったんだろう?然程重要でもないその疑問は、泡になって消えていく。
音楽は鳴り止まない。私の好きな曲を恭介は延々と弾いている。まるで今までの感謝の気持ちを込めてるかのような。私はただ、それに拍手をすればいい。笑みが零れた。だってこんなにも幸せだ。「ありがとう、さやか」「好きだよ」「愛してる」私だけのコンサート。私だけのその左手。
私だけの。私だけの。
作品名:ルック・アット・ミー 作家名:江本夏子