雪の日の
雪の日の
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厳しい冬を越えた梅の香が、風に赴くままに相模の町並みを彩り、それは多くの桜の木が植わる、この北条の城も同様である。しかしそのかぐわしい香りは、連日続く豪雪のために、近頃はあまり楽しむことが出来ずにいた。
轟々と寒空を吹き荒れた白雪は、ようやっと空から姿を消したようであった。次第に晴れ間が見え始め、閉め切られていた部屋の戸が次々と開いていく。久方ぶりの太陽は、薄雲に慣れた皆の眼に大そう眩しく映り、更には雪に反射して煌めくものだから、その白銀を目にした者は、思いがけず目を細めるのだった。
城の主も漏れずにまた、庭を覆う雪景色に目を三日月のようにした。しかしその眼差しが目の前にある桜の木に向けられた途端、皺の多い瞼は大きく見開かれた。雪の重さに耐えきれなかったのか、いくつか枝が折れてしまっていたのである。
「ああ、なんということぢゃ。」
二手に分かれた幹のあいだにどっしりと構える雪のかたまりを、何とも不安げに見つめるこの御仁は、名を北条氏政という。
「風魔、風魔はおらんか!」
しわがれた声が大空に響き渡るのと同じくして、氏政の目の前に旋風が巻き起こる。黒羽根と雪とが渦を作り、その中に目元を兜で覆い隠した、赤髪の男が現れた。両腕を組みつつ小田原の冬桜を見上げるこの男は、北条が忍びの風魔小太郎である。
「このまま幹ごと折れてしまっては堪らん。ちとどかしてくれんかのう。」
風魔は氏政の手に握られた桜の枝を一瞥すると、もう一度幹の根に身を構える雪塊を眺めた。顎に手を当て、しばらく何か考え込む素振りをしたかと思うと、おもむろに片手を挙げた。黒羽根と共に疾風が起こる。思わず目を瞑ってしまった氏政が次に目を開いた時、風魔はその握った大きな手裏剣を振りかぶるところであった。
「風魔!それはいかん、いかんぞぉおおい!」
すかさず氏政が大声で止める。風魔はちらりと横目で主を見遣ると、右の手に握られた大型手裏剣を、上空に向かって思い切り投げた。それは空のかなたできらりと輝き、そののちの行方はわからぬ。
「馬鹿者。幹ごと落とすつもりか!」
「………」
「全く、お前という奴は。この北条家にとって桜の木がどれだけうんぬんかんぬん」
「………」
「特にこの桜はうん百年と昔からここにあるとされてうんぬんかんぬん」
「………」
「からして、この巨木を傷つけることなどあっては……ごほん。まあ、その、つまりじゃな。わしがお前に頼みたいのは、この雪をどこかへ持っていってくれんか、ということなのぢゃ。忍の技なんぞ使わずとも、その両腕にかかれば容易いぢゃろう。」
風魔は主の言葉を聞き終えると、小さく首を縦に振った。はたして本当にわかったのだろうか。氏政は少し不安に思ったが、瞬く間に桜の木に登り、くないと棒手裏剣で雪を掻き落とす風魔の姿を見て、ほっと一息ついた。
さくさくと、雪の中にくないを突き立てた音だけが氏政の耳に響く。それは、寝入った幼子を起こさぬよう気遣う人々の、足音の優しさによく似ていた。雪の音と共に幹の間から雪が落ちていく。
さくさく。さくさく。ざっくざく。がりがり。
「こ、これ風魔!幹を削るでないわぁああ!」
*
事なくして、風魔を使った雪かき作業はあっという間に終わりを迎えた。普通の人間ならば早くても半刻はかかろうものを、風魔は四半刻もせずに終えたのである。
かようなことに忍び――それも伝説と名高い風魔小太郎を使うなどもっての外である、と家臣たちは冷や汗をかいているのであるが、北条の主はそのことを気に留める素振りなど全く見せない。風魔も嫌がる様子を見せないのだから、これでいいのだ、と思っているのである。
「おお、すっかり雪もなくなったな。御苦労、ごくろう。」
主の前に降り立った風魔の左肩を、氏政は労うようにぽんと叩こうとして――そこに肩当てがあったのを思い出し、仕方なく剥き出しになった左腕を、近年皺の多くなった手のひらで軽く叩いた。
瞬間、驚くような冷たさが氏政の手のひらを伝わった。
「風魔、お主冷えておるではないか!」
つい先ほどまで、篭手越しとはいえ雪に触れていたためであろう、風魔の体は冷えていた。氏政は慌てて自分の羽織を脱ぐと、風魔の肩にかけてやった。羽織の背には、北条の家紋があしらわれている。
風魔はすぐさま氏政の寄越した着物に手を掛けると、そっと主の元へ返した。要らぬと言っているのである。「寒いのなら来ておれ」と羽織を押し返すも、風魔は首を横に振るばかりで、主の言うことを聞こうとしない。
「ええい、風魔よ。ここに座れ。」
氏政は先ほどまでゆるりと過ごしていた縁側を指差すと、風魔をそこに座らせた。こちらに視線を配らせる風魔をよそに、氏政は隣に座る。そうして手の中の羽織を自らの肩にかけたかと思うと、そのもう半分を風魔の肩へと寄越したのである。これには風魔も驚いたのか、足元から黒羽根が浮き立つのが見えた。
「いかんぞ、風魔よ。」
氏政がすかさず声をあげる。
「今ここでお主が消えるとなると、この北条の家紋の入った羽織に傷がついてしまうやもしれぬ。それはいかん。いかんぞ、風魔よ。」
その言葉に風魔は大人しくなり、舞い上がった黒羽根は行き場を失くし、新雪の上にふんわりと落ちていった。氏政はうんうん、と頷き、庭を挟んだ向かいの廊下を歩く下女に声をかけるべく、片手を挙げた。風魔の左肩と触れていたためか、その腕は心なしかひんやりとしている。
「おおい、そこの。茶と団子を持ってきてくれんかの。二人分ぢゃ。」
一体いつお客人が来たのかしらと首を傾げつつ縁側へと向かった下女は、妙に満足げな氏政の隣にある風魔の忍びの姿に、それはそれは驚いたという。
(雪の日の/2011.02.23)