さかなのお姫様は夢見がち
あの日から、彼の心の日めくりカレンダーは止まっている。
「おはよう、サカナちゃん」
やって来て笑った彼の顔は、どこか晴れ晴れとしているようで、私は挨拶を返しつつ首を傾げた。
「もしかして、昨日は眠れたのかしら」
「ああ、久しぶりにね」
「そう…良かったわね」
彼は私を閉じ込めた―いや、私が閉じ込められることを望んだ檻の、柵の隙間から手を入れた。
「おいで」
「…何」
「キス、しよう?」
「どうしたの。あなた、何か」
「良いから」
穏やかに、けれど有無を言わさず、彼は私の顎を掴む。
「…っ、ん」
反射的に目を閉じた。
そして、私は思い出す。彼との、初めてのキスを。
―――「どうして…?」
うぶな私は、解放された唇でそう尋ねた。
すると、彼は笑って「契りだよ」と答えた。
「契り?」
「君は俺のものだということへのね」
「私が…あなたの」
「そう」
そうして、彼は再び私の唇を自分のそれで塞いだのだった。
「嫌…?」
「ううん…素敵ね」
甘美な響きだった。
私は彼の、ミヤビ・レイジのものになる。考えただけで鳥肌が立った。
「はぁ…」
「美しいね、君は」
「そう…?」
「ああ、他の誰よりも」
その後どうしたのだか、よく覚えていない。
ただ、これで私は本当に彼のものになるのだ、なれるのだと、その喜びに身も心も震えていた。
流した涙を舐めた彼が「甘いね」と言ってくれて、それだけでどこまでだって泳いで行けそうなくらい、幸せだったのだ。
―――「サカナちゃん、どうしたの?」
生理的なしょっぱいだけの涙を零して、私は目を見開いた。
「あなた、昨夜どこで眠ったの」
「君に教える必要があるのかい?」
それで、十分だった。
「出て行ってくれないかしら」
「サムの話の続きが聴きたいんだけど」
「必ず話すわ。だから、今は出て行って」
彼に背を向けて、私はもう何も言わなかった。
「それなら、理事長らしく校内の見回りでもして来ようかな」
足音がしなくなると、私は顔を手で覆ってひとしきり泣いた。苦い涙を噛み締めた。
どこかでわかっていたことなのに、悔しかった。
たとえば、彼が時々、私を見つめながら違う名前を呼ぶこと。それはソラであったり、シンゴであったり、他の誰かであること。
私の歌声に耳を澄ますふりをして、他の何かの声を聴いていること。
私に囁く「美しい」という言葉が、私一人のものではないということ。
彼は知らない。彼はあの夜、私に楔を打ち込んだことを。「俺は誰のものでもない、誰のものにもならない」という、残酷な楔。
―――それでも、私の心の日めくりカレンダーは、毎日確実に捲られている。そして、この歌声が彼に届くことを願っているのだ。
もう、彼が冷たい涙を流しませんように。いつの日か、彼のカレンダーが動き出しますように。
『さかなのお姫様は夢見がち』
作品名:さかなのお姫様は夢見がち 作家名:璃琉@堕ちている途中