へびと林檎
ゆるりとスローモーな動きで、男にしては少し丸い頬が近付いてくる。
煌びやかで優雅な音の粒が、背後から空気を震わせているけれど、そんなことはお構いなしで、眼前の人物―――但馬―――は両の腕を僕の座っているソファの背もたれに置いた。対面で見下ろされ、ともすれば近すぎる体温に気付きわずかに気恥ずかしさが湧き上がる。そんな感覚を認識し、ひやりとした瞬間、カチャリ。硬質な音が、小さく耳元で響いた。同時に、かけていた眼鏡が軽くなる感触。テンプルを、器用に口で外した音だった。
「但馬……」
「ふふ、なんですか? 甘粕さん」
眼鏡の重みの代わりに与えられた、甘ったるいキスの音に混じって呼ばれる名前の響き。但馬の顔は依然として近く、大きな瞳から逃れられない。チョコレートとキャラメルを溶かして、流し込んだみたいに甘やかなひとみのいろだ。先ほどの、キスの音が甘いのもうなずける。
但馬を構成するのは、なにかふわふわとした洋菓子めいたものばかりなのではないだろうか。馬鹿げたことを考えては、目を伏せる。
しんしんと、レコードは奏で続けている。あでやかに高音をかき鳴らすピアノの、透明な音色が空気を揺らし、音は祈りを伝播するかのようにやさしく伝わってくる。バスからアルト、そしてソプラノ。漣のようなトリルと、押し寄せるように鍵盤の階段を駆け抜けていくアルペジオ。
「乙女の祈り」
するりと抜かれた眼鏡を取り上げられ、視界がぼやける。うすい綿あめに遮られたみたいだった。
「合ってますか?」
「この曲のことなら、正解だ」
テクラ・バダルジェフスカ―――夭逝したポーランドの女流作曲家―――の、編み上げたうつくしいメロディが部屋中を満たしている。レコード盤の揺らぎと、演奏の揺れが重なってブレても、その音色の甘やかさは決して損なわれない。
「まるで彼女のそれみたい」
ふふふ、と笑う声は、まるでレコードに記されていたかのようにぴたりと似合いなのが不思議だ。但馬は甘えるように頬を寄せ、指先で輪郭をたどる。薄桃色のマシュマロみたいな肌の色だなと思う。弾力も、やわらかそうでいて、手ごたえがあるところが近しいだろう。指先はゆるゆると熱を伝え、悪戯に肌をくすぐる。
「眼鏡、ないと困りますか?」
「今は困らないが、ずっとないのは困るな」
「不自由ですね」
指先はいつのまにか、自分の手首へ絡められていた。貧相な手首だとは思うが、但馬の指はいっそう華奢だった。細い指が、なでるように手首へ触れ、そして救い上げるようにして取り上げられる。青白い自分の肌に、但馬の肌はまぶしく紅色をしている。
「そんなの知った話だろ」
「いいじゃないですか、ぼく、貴方の眼鏡なんてずっと取り上げておきたいですよ」
チリ、と微かな痛みを感じて、何かと思えば、但馬に食まれたようだった。少し噛んだあと、くちづけられて、音が聴こえる。ああ、レコードは曲を終え、止まってしまったのか。小さな音が、リアルに鋭く染み入ってくる。
「ねえ、ソーイチロウさん?」
眼鏡などなくとも認識できる距離で、但馬の大きな猫の目に覗かれる。唇はまるで禁断の果実の色をしたキャンディのようだ。触れたらきっと、戻れないことを宣言するかのように。
「―――ああでも、彼女は、祈られる乙女ですね」
けれど、もう、知っている。その、背徳めいたキャンディの、味も、温度も。知っているのだ、そして、その毒からは、決して逃げられないことも、もちろん―――。