可愛いは正義
「達海さんっ?ちゃんと聞いてるのっ?!」
有里の怒号を上の空で聞きながらも、ぼんやりと達海は考える。思い出せない、何をどうしたって思い出せないのだ。
「聞いてるって。で、これ誰だっけ?」
渡された紙に載っているのは、今度のオールスター戦のそれだ。そこには東京Vの平泉監督の写真、そして己の顔に、もう一人。達海はその『もう一人』を指差して首を傾げた。
元より、達海は人の顔を覚えるのは得意ではない。人の顔どころか、正直、他の大事なことすらも忘れていたりするが、それは兎も角として。
「この人?この人はあの人じゃない、…ほらあの、」
達海が指したその男の顔を見て、有里は一瞬呆れた様な表情を浮かべたが、それも直ぐに歪んだ。彼女までもが眉を潜めて考え込む。
「お前だって忘れてんじゃねえかよ」
「…思い出したっ!モンテビア山形の監督よっ!名前は確か佐倉さん…っ」
「モンテビア山形って」
そして思い出したかと思えば、大きな声と共に彼女の表情が晴れやかなものになった。しかし彼女とは逆に、達海の表情は未だ晴れない。その名前を聞いて達海は益々眉を潜めたのだ。
「確かケンケンが居るところだったっけ。…あそこの監督ねえ」
モンテビア山形と言えば、確か前半戦ではETUとは引き分けであった。勝ったから印象に残っていないのならばまだ分かるが、引き分けであったのに、何も思い出せないのは何なのか。「こんな顔だったっけな」などと言いながら紙に掲載されている写真を見つめても、彼のことを欠片も思い出せない。
「ちょっと、達海さん。流石に本人を目の前にそんなこと言うの止めてよね。幾ら印象薄かったからって」
「俺はそこまでは言ってねえぞ」
お前も案外酷い奴だなと言えば、有里がまた怒り出す。それに達海はげらげらと笑いながら、手元に握っていた紙を有里に返した。
その時はまだ、その写真の男と自分のこの先の運命など、彼は知りもせず。
「あ、ちゃんと話すのは初めてでしたね。達海さん」
一度話していたにも関わらず、結局はオールスターの日にちすらも忘れていた。先の前半戦の最後、東京Vとの試合のことで、達海は頭はいっぱいだったのだ。正直な話、今日の日のことを東京Vの監督である平泉に言われて思い出した程だ。有里にそれを知られたら、また何と言って怒られるか分かったものではない。
日本人選抜側のベンチで隣に座った男は、やはり見覚えのない男であった。会ったことがある筈なのにも係わらず、だ。
男ににこりと笑われて、達海もにこりと笑い返した。そのこめかみにじわりと滲んでいる汗に、目の前の男は気が付いただろうか。
「私、モンテビア山形の監督…佐倉と申します。改めて宜しくどうぞ」
「だ…だよねー。俺、達海」
佐倉の言葉に返しながら、そこでようやく達海は大事なことを思い出す。会ったことが無いなんて、嘘だ。いや、そもそも前半戦で会っているのだが、その時に何故この男の印象が無かったのか、その理由をまさにたった今、思い出したのだ。
(そ…そうだった。この人地味過ぎて…前の対戦の時もコーチの人に握手しちゃったんだった…)
そう、薄かったのだ。印象がどうしようもなく薄かった。達海の頭から彼のことが消えていた原因は、そのただ一点だ。だから佐倉の印象が達海の中には無かった。だから彼と会った様な気がしなかったのだ。そんなことは、口が裂けても言えやしないが。
「歳いくつ?」
「三十七です」
何も言わずに黙っているのも気まずくて、珍しく達海は饒舌だった。彼がこんなにも何かを誤魔化そうとしたのなんて、今まで余り無い経験だ。いつもならば何事であっても、ズバッと言ってしまう。
「へーっ、じゃあ似たようなもんだ」
達海は三十五歳で、佐倉は三十七歳。その差はたった二つ。年齢が近いと急に親近感が湧くのは、何故だろうか。
「そうですね、年も近い所為か……」
「え?」
「サッカー感も似てる気がしてますよ。私の勝手な解釈ですけど」
「――」
『男って現金』だなんて、一体今まで何度思ったか分からない。勿論自分もその内の一人であり、だからこそこんなことを思うのだ。
「た、た、タッツミー?どうしました?」
ぱっと見て地味は地味だが、彼を包む雰囲気が柔らかいのと、コロコロと表情が変わるのと、やたらと恥ずかしそうにしているのと。それを見ていると、こちらまでドキドキしてくる。だがその動悸を、自分は何かと履き違えては居ないだろうか。これはときめいたそれではなく、ただの不安のそれではないのか。
(妙にドキドキすんだけど)
その上、さっきにこりと笑われて、一層この胸はドキリと高鳴ったのだ。それを見て、『可愛い』なんて思ってしまった。これを現金と言わずに、一体何と言うのだ。ついさっきまで、自分はこの男の顔を忘れていたというのに。
「あ、ああ、別に何でもないから」
「そうですか、それは良かったです」
「…」
いやだから、その笑顔をこちらに向けないでくれ。何だか胸が痛くなって仕方が無いのだ。達海は顔を背けたが、それに佐倉は気付かない。
「サックラーさあ」
「どうしました?た、…タッツミー」
未だに『タッツミー』と呼ぶのが恥ずかしいのか、口にしようとする度にもごもごしてしまっているが、それはこの際無視することにする。
「ケンケンのこと好きなの?」
「…はい?」
「さっきからケンケンの名前ばっかり口にしてるから」
モンテビア山形と言えば、このサッカー界で重鎮と名高い古内健が居る。勿論彼は今回のオールスターにも呼ばれていて、佐倉はそのケンが出場するのが余程嬉しいのか、達海と話している最中に、何度も彼の口からケンの名が出た。
「いやあのっ、好きと言いますか、尊敬してますけどっ」
「じゃあ別に好きじゃないんだ?」
「ええと、尊敬しているっていう意味では好きということになるかも知れませんけどっ!」
この会話は成り立っているのだろうか。そう思ったが、これ以上深追いしても仕方が無い。顔を真っ赤にしている佐倉に、達海は今度こそ笑った。
「じゃあ俺にもチャンスはある訳だ」
「…え?何の話です?」
(何の話をしているんだ、こいつらは…)
わいわいと二人が話している隣で、この日本人選抜の監督として抜擢された平泉が溜息を吐く。何となく二人の会話が成り立っておらず、そしてそれぞれの言っている言葉の意味も平泉には分かるのだが、だからと言って口出しなどしたくはない。どツボにハマるのは目に見えている。
(まあ、まだこの二人も若いということだな)
一瞬二人に向けた目線を平泉はピッチの上に戻すと、再び深い溜息を吐いた。その溜息を、隣の二人は気が付きもせずに。