黒い匣
「……は?」
「だから、カーテンを買ってきてくれませんか」
「…………何だって?」
「カーテン…」
「いや、それはわかった」
俺が訊きたいのは、何だってカーテンをってことなんだが。
「暗い色のカーテンは――……気が滅入るか」
俺は煙草を挟む指で、カーテンを示した。その指先を辿るように、晃弘がカーテンを見た。ので、俺も見る。
部屋を借りた時そのまま付いてきたカーテンは、黒に近い青色をしている。カーテンの隙間から注ぐ日光がやけに眩しくて、俺は目を細めた。
「もっと日光を通すような――そんなのが、良いか」
「いいえ」
晃弘はカーテンを見つめたまま首を振った。その横顔も、俺と同じように目を細めている。
「もっと暗い色の、視聴覚室の遮光カーテンのようなものが。できればもっと隙間もきっちり閉まればいい」
「…………」
「駄目なら、良いです」
「駄目じゃない。が――……」
俺は煙草を灰皿で揉み消して、晃弘を見た。晃弘は俺の視線に気付かないようにすましている。
「どうしてそんなものが欲しい?」
「…………」
「言え。怒らないから」
俺は二本目の煙草に火を点けた。……ここのところ、自分の喫煙量が増えていることに気付いていないわけじゃなかった。ちなみに、飲酒量も。俺は台所に積み上げられたカティー・サークの空き瓶を思う。
「眩しいのが、怖い」
「怖い?」
「貴方を裏切りたくなるから」
「…………」
「貴方がするなと言うことをしたくなる。貴方の出ていくなと言う命令を、陽射しを見るたび思い出す」
「…………」
「裏切らせないで」
そう言うと、晃弘は言うべきことを言い終えたという風に、電源が切れたように黙った。
俺の部屋での晃弘は、ぜんまい仕掛けのおもちゃに似ている。それとも、必要のある時以外はただの置物でしかない家電製品みたいだ。
もう定位置となったソファの上で、晃弘は俺が話し掛けるのをじっと待っている。……俺は深々と紫煙を吐いた。
「わかった。今度買ってきてやる――お前も来るか?」
「いいえ」
晃弘は苦々しげに表情を歪めた。
「なんだ」
「…………」
「言えよ」
「貴方のそう言うところが嫌いだ」
「はあ?」
「中途半端なんだ」
晃弘はまるで何かを振り払うように首を振って、俺を見た。恨みがましい声色からして、睨まれるかと思ったが、晃弘はいつか見た無表情だった。
「ここにいろと言ったり、気紛れで連れ出そうとしたり。僕は何も望まないのに」
「…………」
「小説を読みました。貴方の」
「俺の?俺は小説は書かない」
「違います。貴方の持っている小説を」
「ああ、なるほど。何てやつだ」
「…タイトルは、忘れました」
癖なのか、晃弘はありもしない眼鏡のブリッジを押さえて目を逸らす。眼鏡はなくても、癖は残るのか。俺は何となく自虐的な気持ちになる。
「と言うかお前、本読むんだな。てっきり俺がいない間はずっと、固まってるのかと。良い暇潰しになったか?」
「貴方がどんな本を読むのかと興味があって。それだけです」
「…あ、そう。それでその小説が?」
「男が、恋人の少女をきっちりと隙間のない匣に詰める話でした。僕は空想する」
「何を」
「貴方が僕を匣に詰めてくれることを。こんな隙間だらけの部屋じゃなくて、身動き一つ取れない匣だ。僕には自由なんかなくて、僕は家具同然にただあるだけで、全てだ」
「…………」
言葉を失った俺へ、晃弘はにっこり笑った。
「冗談です。でも、カーテンが欲しいのは本当だ。買ってきてくれますか?」
「……ああ」
「ありがとうございます」
また一つ、晃弘はにっこり笑った。俺はいつの間にかちびてしまった二本目の煙草を、灰皿へと放り込んだ。
河辺の書いた晃弘の記事はセンセーションを巻き起こした。それとともにこれまで隠蔽されてきた茅代議士のスキャンダルも掘り起こされ日夜放送され、茅代議士の名を知らない者はほとんどいないようになったが。
晃弘はそれを知らない。
俺はそれを隠し続けている。
テレビもパソコンも捨てたし、新聞を取るのも止めた。雑誌記者としちゃ有り得ない行動だが、これで良いんだ。これで晃弘が守れるなら。
「津久居さん」
晃弘が眩しそうに目を細める。
「煙い」
「ああ……」
「消してください」
灰皿を見ると、一本目の煙草と二本目の煙草が一緒になって燃えていた。二本目の煙草を消し忘れていたことに今更気付く。
俺は灰皿を持って立ち上がり、水道の水を掛けて消した。振り返ると、晃弘が俺を見ている。
自分の隙間を俺で埋めようとするかのように、いつも晃弘は俺を見ている。
俺がいる時には俺を見て、俺がいない時には俺の部屋で俺の影を見る。
俺は自分が晃弘になにもしてやれないことを埋め合わせるように、それを許す。
……いや、ちがうな。俺はもっと酷い。
俺はただ、晃弘の顔をした、無条件に俺を慕うこの、おとうとといういきものが、いとおしくてしょうがないだけだ。
俺は灰皿を流し台にうち捨てると、晃弘の隣へ無理矢理座った。晃弘がちょっと嫌そうな、それでいて嬉しそうな顔をする。
「どんな匣が良いんだ」
「詰めてくれるんですか」
「無理だ。でも空想は自由だし、金も掛からない」
「なるほど」
「で、どんなだ」
「そうだな……」
晃弘は真面目な顔をして、また見えないブリッジを押さえた。俺は三本目の煙草に火を点ける。晃弘が嫌そうな顔をしたが、気にしない。
「黒くて、分厚い匣がいい」
「ほう」
「できれば貴方が作った」
「お前も手伝え」
「めんどくさいな…」
「言い出しっぺはお前だろ」
「…そうですね」
隣に座る晃弘は、下らない空想に頬を綻ばせるただのこどもだった。その笑顔を守ってやりたいと思って何が悪い?
鳥籠の中の小鳥のように、俺は晃弘を飼い殺す。
死ぬなら、俺の掌の中で死ねばいい。