飛ぶ少年
今日も池袋に来ているのか、と走り去っていく臨也を、帝人はぼんやりと見つめていた。後から出てきた静雄は、臨也がどちらに行ったのか一瞬わからなかったようで、その場で少し立ち止まって、きょろきょろと目線を群集に落としてから、その間を縫うように走っていく臨也の背中を見つけて、追っていく。静雄は、臨也に向けた怒りの所為か、周りがあまり見えていないようで、帝人に気がつかないで行ってしまった。いきなりでてきた二人にどよめく雑踏の中を、隙間を縫うように、帝人は二人が走り去っていった方向と逆の道をまた歩き出す。
アパートについてから、鞄を床に置いて、さっき見たあれは夢なんじゃないかな、と帝人はふと思った。会話がなかったからかも知れないけれども。ある一点、特別なことが何もなければ、運命的な、といえばいいのか、そんな名前のつながりがなければ、群集の一部にまぎれてしまうような、何の変哲もない―しいていえば童顔ということぐらい―、あどけない少年と、あの二人とが、交わるはずもなかったからかもしれない。
帝人はひとつため息をついて、なんだか疲れてしまった、と、独りきりのワンルームの部屋の床にこてん、と寝転がった。
その夢のなかで、少年はビルの上を飛んでいた。
少年の目には小さくみえる、蟻のような多くの群集の中に、いくつもの、いくつもの線が見えた。それは群れをなして、まるで入り組んだ蜘蛛の巣のように、群集の中を這っているのだった。少年はふとその線が、もしかしてあの中の群集同士を結びつける糸なのではないかと思った。つながりという名前の。
少年は自分の手を、腕を、足を、首を、思いつく限りの糸が結べる場所を、体をひねって、探した。しかし群れを成す雑踏の中にあるあの糸は、少年の体のどこにも繋がっていないのだった。ただ、いくつもの糸が彼の着ている制服のポケットへ続いていた。少年は、ポケットにあるものを、糸を手繰って取り出した。少年は、それを見た瞬間に気が付いてしまった。糸が絡み付いて、まるで繭のようになっているそれは、自分の持つ携帯電話ではないかということに。少年はそれで、自分の体のどこにも、糸が繋がっていない理由を理解した。
繭はいくつもの糸がからみつきあって出来ていた。その糸は、少年が飛んでいる空から、下の黒い群れへと、繋がっているのだった。操り人形の糸のようだと少年は思う。自分の考察が当たっているとしたら、と、少年は糸の垂れ下がった繭を手のひらから、指先へ転がした。繭はゆっくりと少年の足元へ転がり、そのまま吸い込まれるように、ビルの隙間に落ちていった。少年はそれをゆっくりと見送りながら、困ったなあ、と、小さく呟いた。「あんなものでしか繋がれないんだなあ」。
あの糸が、自分の欲しがっていたつながりだとしたら、なんて、簡単になくなってしまうものなのだろう、そう少年は、小さくなっていく繭を見送りながらそう思った。
少年はビルの上を飛んでいた。群集は光るビルの窓の下を少しずつ、少しずつどこかへ向かって動いていく。少年が落とした繭はもう見えなくなってしまった。ただ、先ほどと同じように、群集は、蟻のような群れは其処にあった。少年独りを空に残したまま、灯りのようにはかない糸を互いに絡めあったまま。
この街に不釣合いな、静かな夜だ、と少年は思った。
ばたん、という一際大きな音で、少年が夢から覚めてしまうまでは。
帝人がその音で、まどろみから目を覚ますと、玄関で人が倒れていた。
大きな音でふっと浮いた意識が、彼の瞼をこじ開けた。「……、へ……?」、と、音がした方へ顔を向けた少年は、そんな呆けたような声をだして、鍵のかかっていたはずのドアをじい、と見る。ドアの前に人は立っておらず、下へ視線を動かすと、そこに誰かがいるのだった。
先ほどの夢の記憶と現実との境も曖昧なまま、帝人は降ってきた夜のような、その塊に駆け寄って、思わず触れた。いつもの、猫のような俊敏さで、動かずに蹲っていることが怖くなって。「……ちょっとかくまって」、と玄関で蹲ったまま彼は言うのだった。搾り出すような、苦い、けれども、凛とした声だった。「うっかり食らった一発が酷くて、…ちょっと、新宿まで、戻れそうになくて、さ」。
帝人は戸惑い、そして自分よりも、あの糸が絡まった繭をたくさんたくさん、持っていそうな彼に、「馬鹿じゃないですか」、と困ったように笑った。あまりかかわりたくない人間であるはずなのに、その時ばかりはどうしてなのか、理解できなかったけれども、うれしくて、寂しくて、少年は少しだけ、泣いた。