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銀の海

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レースカーテンの隙間から日差しが差し込む部屋は、その光の眩さすら音として聞こえそうなほどに静かだった。響くのは空調の鈍い唸り声と、紙が擦れるわずかな音、そして小さな寝息。
 しばらくの間ソファに座り文字を追うことに没頭していた柳生は、その小さな音に気づいて視線をあげた。
 隣でテニス雑誌を読んでいたはずの仁王が、ソファの背もたれに身体を預けて目を閉じている。その唇からこぼれる吐息は規則正しく、彼が眠りの中にいることを教えていた。
 床に目を落とせば彼が読んでいた雑誌が転がり落ちている。拾い上げようかと腰を浮かしかけたが、こうも近くで座っている状態ではソファの振動で彼を起こしてしまうだろうと思い至り、柳生は諦めてもとの体勢に戻った。そして手にしていた文庫本に栞を挟んで脇に置く。ストーリーは佳境に入っていたが、柳生の意識は隣の存在によって既に攫われてしまった。
 こうしたときの彼の表情は随分と幼く見えると、柳生はひとり心の中で呟いた。普段挑発的な光を湛えて人を射抜く瞳も瞼の奥に隠れ、不敵に歪められる唇も今は穏やかな呼吸を繰り返すだけだ。あどけないとも言える年相応の寝顔に、柳生は思わず口元に笑みを浮かべる。
 かわいいひとだ、と思う。仁王に対しての感想としては、普段の姿を目にしている人間が聞けばそんなにも似合わない言葉はないと言う者もありそうものだったが、しかしやはりそれが柳生の正直な感想だった。詐欺師の鎧を脱ぎ捨て幼子と同じ姿で眠るこの等身大の彼の姿を、皆は知らない。このひとのこの姿を知るのは自分だけで良かった。だから先程の言葉が他人から肯定されることなど、柳生は望んではいない。他人が彼をかわいいと表せばきっと自分は良くない感情を抱くであろう事は想像に難くなかった。
 彼に関しては随分と心が狭くなる。本当に、紳士などとはほど遠い──ひとり苦笑していると、仁王がソファの上で小さく身じろぎをした。それは本当にささやかな動きではあったが、後ろ髪がその拍子にさらりと小さな音を立てて流れる。
 仁王は今日はその長い後ろ髪を束ねておらず、銀色の流線がソファの上にいくつも描かれていた。差し込む陽を浴び、髪に当たる光が乱反射するように踊っている。小さな宝石が落ちてでもいるように、ソファの上で其処だけが眩かった。
 引き寄せられるようにそちらに手を伸ばし掛け、は、と彼がまだ眠っていることを思い出す。起こしてしまうかもしれない、そう思って宙に浮いた掌を膝の上に戻そうとするが、それは言うことを聞かなかった。結局柳生は欲望に負け、彼の銀色の鬣にそっと触れた。
 一房軽くつまみ、手に取る。カラーリングを繰り返しているせいか少し痛んでいるような感触はするが、それでも柳生の中でそれはさらりと音を立てた。ささやかな優しい音であったが、しかしその微かな音は、柳生の引き金を引いてしまった。
 彼の頭に手を伸ばし、そっと耳の辺りに触れる。仁王はその感触にまた小さく身じろいだが、起きる様子はなさそうだった。
 よく眠っている、その事実に柳生はまた微笑む。彼が自分の隣で無防備な姿をさらしていることが、この上もない幸福感を自分に与える。それは本当に警戒心の強い彼が柳生をテリトリーに入れていることの証拠であったし、彼の入り組んだプライドを崩すことを許されている証のようなものでもあった。
 彼の寝顔を眺めながら、柳生はその銀糸に指を通した。それはするりと指の間を通り抜け、小さな音を立ててソファの表面に着地する。その感触が何とも心地よく、柳生はやさしく、やさしく、何度もその行為を繰り返した。
 ああまるで、と柳生は感嘆の意を含む息を吐く。滑らせている自分の手が、まるで銀色の海を泳いでいるようだと、そう思ったからだ。
 幼い頃、両親につれられていった美しい海の記憶が蘇る。海に潜り、海底から天を仰いだときに目に飛び込んできた色があまりに鮮烈で、今でも良く覚えている。それは光を反射して光る、銀色の水面だった。
 手元にある美しい銀を見てあの鮮烈な光を思い出す。ああではこうしてその銀色に滑らせているこの指は、海を泳いでいるのだろうか。この掌は銀の水面に埋もれているのだろうか。今自分は、海を泳いでいるのだろうか。自分でも随分とロマンティシズムに溢れる表現であるとは思ったが、素直な感想であることに変わりはなかった。
 口元の笑みが深くなる。なんて今更だろう、だって自分が彼に泳がされているのは、今に始まったことではない。出会ってからずっと、自分は彼に泳がされ、溺れさせられている。そう苦笑してしまうくらいには、柳生は自分が仁王に囚われていることを自覚していた。
 銀糸の間を泳ぐ動きは止めずに、柳生は仁王の頭を自分のほうに引き寄せる。寝息をたてる彼の頭が、静かに柳生の肩の上に乗った。加わった肩の重みが、言いようもなく愛しかった。
 その振動で仁王の意識が少し浮上したようで、閉じられていた彼の瞳が薄く開いた。琥珀より明るい瞳が柳生を捉える。けれどその色はまだ眠気に溺れていて、あどけなさだけを纏っていた。
「……柳生…?」
「まだ寝ていてかまいませんよ。お休みなさい。」
 微笑みながらやさしく言えば、仁王はちいさく頷いてまた眠りに落ちていった。その間も柳生は髪を梳く手を止めない。仁王にこの掌の温度は伝わっているだろうか。仁王を想う温度が、どうか彼に安眠を与えられれば良いと切に願う。
 柳生はあやすように髪をなでる。今日は自由な後ろ毛が指の動きに習ってさらさらと音を立てた。それはとても耳に心地の良い、美しい音だった。心地よい感触と耳障りの良いBGMに、柳生は自分にも睡魔が訪れつつあることを知る。
 この上もなく穏やかな気分だった。何も害するのことのないただ幸福な時間がここには在った。

 手が、指が、銀の海を泳いでいく。髪を梳くのは、とても静かで優しい愛撫であると、柳生は思った。
作品名:銀の海 作家名:えんと