恋愛小説
王都と言う物は実に便利だ。
城の廊下を歩きながら、アスベルは小脇に抱えた小さな荷物を抱え直して思う。自身の出身地であるラントも決して寂れてはいなかったし、騎士学校の設備にも不満は無かったが、やはり王都は国王が住まう街。頭からつま先まで必要な物が、全て揃っている。
個人の趣味に沿った専門店や、美容健康に必要な施設、果てや中古品を扱うリサイクルショップのような物まであるのだから、王都様々。特に今のアスベルにとってすれば、この充実っぷりのお陰で必要な物が手に入った訳だし、文句の無いくらい清々しい気分で鼻歌が漏れるのも無理は無い。
本日彼が買い物の後に城を訪れたのは、リチャードに用があるからだ。
もうすっかり城の者にも覚えられてしまった顔を下げ、これまた慣れてしまいつつある友人の私室への道を進む。門から入って右、右、左、階段を上って左、右、左。そこの廊下をずっと真っすぐ行った突き当たり。そこがリチャードの私室となっている。
アスベルは小脇に抱えた小さな荷物を抱え直した。
「リチャード、俺だけど…入っても良いか?」
コンコンと二度ドアをノックする。
最初こそ礼儀正しく敬語を使っていたが、今となってはその敬語がむず痒くなってしまい使っていない。世界広しと言えど、一般国民が国王とここまで親しいのは希な例であろう。
どうぞ、と些か気の無い声に誘われ中に入れば、わざわざ窓際にイスを移動させ本を読んでいるリチャードが出迎えてくれた。
出迎えと言っても大した反応は無く、本を読むのに夢中らしい彼は軽く手を上げただけで、本から視線を外そうとはしない。
組んだ脚に片肘を付き、付いた腕を頬杖に使っているリチャードの姿は、さながら、かの有名な“考えるヒト”のようである。
その、随分とうら若き“考えるヒト”の姿を見て、アスベルは溜め息混じりに近づく。
「また恋愛小説か。 タイトルは?」
「“日向の下のふたり”…。良い話だよ」
「聞いた事がある。今流行ってる二大恋愛小説のうちの一つだ」
「恋愛小説好きとしては、一度読んでおかなければならないと思ってね」
ようやっと活字から目を上げ、リチャードは文字の羅列を覗きこんでくるアスベルに笑いかける。それを横目で軽く流しながら、アスベルは本の内容に目を通した。
リチャードが恋愛小説愛好家だと言う事実は、つい最近知った。思いがけず軽い趣味をしているなと言うのが一番の感想だったが、年齢や雰囲気を踏まえて考えてみれば、逆に彼らしいと言うべきであった。
年齢的にも立場的にも、ちょうどリチャードの周りでは時期王妃論争が巻き起こっているらしく。「また見合いを迫られたんだ」と言う愚痴を、アスベルはリチャードの口から何度聞いたか知れない。
そんな、自身の気持ちを無視された恋愛に飲み込まれているリチャードが恋愛小説の純粋な恋に引きつけられるのは、至極自然な流れであった。
自身の恋愛にそれを置き換えて考えながら、アスベルは本の内容に苦言を呈す。
「何だかこの話…酷く楽観的で能天気だ。主人公も、主人公を愛する女性も、何の悩みも無いみたいに見える」
たった1ページ読んだだけで理解出来るほど単純明快なストーリーに口を尖らせれば、リチャードは口元に手を当てて目を細めた。
「おや、君はこう言う単純明快なラブストーリーは苦手かい?僕は好きだけどな、ひたすら相手を想うだけの簡単なストーリーが」
「愛で全てが解決する訳じゃない。…愛し合っていても、引き裂かれてしまう事だってある。“湖の袂で~アンチテーゼ~”のように」
アスベルがここで口にしたのは、今リチャードが読んでいる“日向の下のふたり”と対を成して大人気をはくしている小説だ。前者が単純な純愛物語なのに対し、後者は叶わない恋のために主人公やヒロインが自害すると言う、甘くも切ない悲恋物語となっている。
両作ともかなりの人気である事から、今現在入手が困難とされており、特に、僅差で一位に躍り出ている“湖の袂で~アンチテーゼ~”は、幾つもの本屋を梯子しないと手に入らない状況となっている。
アスベルは恋愛小説や恋愛自体にあまり拘りは無かったが、単純なストーリーよりは多少の受難を伴う話が好きだった。その方が物語的にも盛り上がるし、登場人物と一緒に一喜一憂出来るからだ。
当然リチャードもその類いだと思っていたから、正直彼が“日向の下のふたり”を読んでいる事には驚いた。
微笑んでいなかがらも、どこか暗い影を落とすリチャードの雰囲気には悲恋の方が似合いだと、アスベルが勝手なイメージを抱いていたのである。
そこの所を素直に吐露すると、リチャードはしばしアスベルを見つめた後、そっと栞を挟んで本を閉じた。組んでいた脚を反対に組み換え、晴天を映す窓へ視線を移す。
「…死の美学と言うものがある。
それは人間が考え出した最も神秘的で、最も禁忌的な死の表現方法なんだろう。誰かが誰かのために死ぬのは美しいし、その死を乗り越えようとする周囲の結束も素晴らしい。けどね…」
リチャードは視線をアスベルに向けた。鋭い眼光が悲しみに歪んでいる。
「僕には少しばかりリアルすぎる。僕の周囲では、いつでも血の臭いが絶えないから…」
昨日会った娘も、五日前に会った娘も、みんな行方不明だ。と、リチャードは零すように呟いた。王妃の座を巡る権力闘争が水面下で勃発していると言う意味だろう。アスベルはハっと息を飲む。
「リアルな命のやり取りを文面の上でまで味わいたくないんだ。だから僕は“日向の下のふたり”の方を読んでいるんだよ」
そう、困ったように笑うリチャードに、アスベルは言葉も無かった。軽率な事を言ってしまったと焦りながら、リチャードの内面を知らなかったのだから仕方ない、次からは気をつけようと自分を戒める。
確かに改めて言われると、幼い頃から命の危険に晒され続けてきたリチャードにとって、自ら命を絶つというストーリー展開は居た堪れないものがあるのだろう。
常人は引き裂かれた恋人を想って泣くのだろうが、リチャードは人間が死ぬと言う事実に着目して泣くのである。同じ泣くでも意味が違う。
そして、どちらの一滴が重いかと言えば、それは当然 死を身近に感じている方の涙が重いに違い無かった。
申し訳無い事をしてしまったと肩を落とすアスベルに、リチャードも重たい空気を感じ取ったのか。ところで…と、無理やりな方向転換を強いた。
「ティータイムも放りだして、何か…?僕に用があったのではないのかい」
「あ…」
真っすぐに見据えられ、アスベルは狼狽して一歩後ろに下がると、咄嗟に手にしていた荷物を背後に隠した。
その荷物は、物流盛んな王都の街でさえ10軒もの店を回って、やっと手に入れた代物だ。
けれどアスベルは、「10軒も梯子した自分を褒めてくれ」とリチャードに迫るほど馬鹿ではない。
「な、何でもないんだ。ちょっと顔が見たかっただけだから…」
「顔…?
…ご期待に添えず、いつも通りの顔で…申し訳ない事をしたかな」
冗談を言って笑顔を見せるリチャードにアスベルも引き攣った笑みを見せて誤魔化した。