ギグは落ちて消えていく
その雫は跳ね返ることなく、真っ白な布団に溶けていく。一つ、また一つ、染み込んで、不恰好な形を成す。そこに触れたらまだ温かいのだろうか。その雫が生まれた場所も、伝ってきた道も、その温度を落とすまいとしているのだから、きっとそうに違いない。
けれど僕の指先はちっともいうことを聞いてくれなくて、まるで自分の体ではないようだ。指先だけではない。腕も、足も、頭も、すべてが錘を付けられたかのように動かない。そこで僕はようやく、僕の体に取り巻く無数の管に気が付いた。何だこれ、まるで重病の患者のようではないか。
「帝人くん、」
雫の主が、細く消え入りそうな声で僕の名前を呼んだ。確かに拾えたので、僕は返事をした――つもりだったのだけれど、僕の口から発せられたのは、ひゅーひゅーという頼りない呼吸音だけ。何だこれ、まるで重病の患者のようではないか。ぐるぐると、普段と代わりない働きを見せる眼球を駆使して、僕は彼の姿をやっとはっきりとらえたのだった。
臨也さんは、唇を噛みしめて震えていた。
いつだって人を馬鹿にするような言動を取って、人を駒のように使い捨てにするくせに、どこか無邪気なところがあって、時々酷く優しく、けれども手の平を返したように残忍なことをする。親友曰く「信念がころころ変わる」というその人が、こんな風に哀しみに暮れているところを、僕は見たことがない。
何かあったんですか。哀しいことがあったなら、僕は何もできませんが話くらい聞きますよ。それで貴方が楽になれればいいですけど、もしなれないのであれば、どうか一緒に悩むくらいのこと、許してくれますか。一緒に考えれば、少しはマシな案が出るってもんでしょう。ねえ、臨也さん。どうしてそんな顔をしているんです。どうしてそんな嗚咽にまみれた声を僕に晒しているんです。「人前で泣くなんて、俺にはみっともなくてとてもできやしないよ」と僕を指差して笑っていたくせに、どうしてそんな姿をしているんですか。
聞きたいことは山ほどあるのに、少しも形になってくれない。
僕が何も言えずにただ臨也さんを見つめていると、臨也さんは僕の手を握りしめて、それに抱きつくように顔を埋めてしまう。ちょっと待って、それじゃあ貴方の顔が見れない。早く顔を上げてください。そう思って払いのけようとするのだけれど、やはり僕の体はこれっぽっちも聞いてやくれなかった。なんだ、反抗期なのか。体が反抗期ってどうなのそれ。
「正直、ダメかもって思った」
何のことだろう――記憶を巡れど、答えはない。というよりも、ぽっかり穴があいてしまったかのようにまったく思い出せない。どうしてこうなったのか、僕は考える。考える。考える。けれども穴は一向に埋まらない。
「ねえ、信じられる?この俺が、震えてるんだよ。怖くて、震えてるんだよ?信じられる?たった一人、たった一人の人間が死ぬかもしれなかったっていうだけで、こんなにも、怯えてるんだ。ねえ、信じられる?なんなの、君って一体なんなの。何で、何でなんだよ。君が恐ろしいよ、帝人くん。俺は、君が、怖くてたまらないんだ」
そんなことをぼやくくせに、僕の手をしっかりと握りしめるのは臨也さんの手だ。
僕より一回り大きいその手に触れるのが、僕は好きだった。その手に触れられ、愛され、時には突き放されるけれどまた掬われる、そんな臨也さんの手が好きだ。
だから、僕は臨也さんの手を握り返したいのだけれど、残念ながら未だ体が反抗期絶好調なので、僕は臨也さんの声をひたすら聞いていることしかできない。
こういう時、「ごめんなさい」と言うべきなのだろうか。
それとも、「ありがとうございます」というべきなのだろうか。
臨也さんはまだ震えている。大丈夫ですよ、と言いたいのに、僕の声はまださ迷っている。肝心な時にちゃんとしてくれないと困るんだけどなあ、自分の体だけど。
「ねえ、何も言わなくていいから、一つだけ答えてくれる?」
顔を少し上げた臨也さんの瞳から、また一つ涙が零れた。ああ、綺麗だなあとぼんやり僕はその様子を眺める。
「帝人くん、俺のこと、好き?」
口もきけない、体も動かせない。その状態でどう答えろっていうんですか――けれども、僕は視線を真っ直ぐ臨也さんに合わせ、答えを心の中で呟く。瞬きは一度だけ。
そうすると、臨也さんは「そっか」と言葉を落として、また顔を隠してしまった。
名前を、呼びたい。
枯れた声で僕の名前を呼ぶ彼の名前を、今だけでいいから、呼びたい。
作品名:ギグは落ちて消えていく 作家名:椎名