春を弔う
陽の傾き始めた頃である。長い雪の道を下っていた。一面、白い。そこここの木の幹の、半分ほどまで積もっている。いきものの気配がない。雪が止む気配さえない。ドイツもフランスも、そこかしこもう春の訪れはすぎていた。花は開花をはじめ、いきものは眠りから覚めている。ロシアだけである。そのひとだけが春の訪れをしらない。照り返すやわい光、花に誘われる蝶の姿、薄着の女や男を、そのひとは見たことがないのだと笑った。
雪道に足をとられ、あげく体温を奪われはじめている。吐く息は浅く白い。おい。震えた声で呼び止めた。そのひとが振り返る。なあに?歩くのはええよ。だって慣れてるもの、君たちより、ずっとね。さみしげに声が響いている。ここは音がないでしょう、だから声が通る。そのひとの声は沈んでいる。ひとつ間をおいて、そうしてまたゆくあてのわからないままそのひとは進んでしまう。彼はだいたい、こんなふうである。得体のしれないひとであった。何を思い何を見ているのか、プロイセンには知らされることもない。ひとつ舌打ちをして、またそのひとの後を追ってゆく。どこまでも同じ色である。どれほど歩いたか知れない。寒さが感覚を奪ってゆく。…で?どこに連れて行く。知りたい?まあわからないのは怖いよね。恐ろしいわけじゃない。意地は結構だよ。感情のつかめない笑い方をする、とたえず思っていた。プロイセンは切れ長の目を細くしてそのひとを睨む。そんなに怖い顔、しないでよ。息のあがったようすもなく、そのひとは楽しそうに肩をゆらせている。ここを下るとねえ、途端にそのひとの声がやわく通った。わらっている。そのひとの白く吐き出した息がのぼって、流れた。蝶はいないけど、花が咲いてるんだ。深い雪の間にね、細い根を張って、まあ雪と同じ色だから見つかりにくいんだけれど。その話を黙って聞いている。下らねえ。呑んだ言葉のかわりに、雪と足元の狭間に唾を吐きすてる。ああ、下らないと思ったでしょう?でも、もうすぐだからついて来てね、それきりそのひとの声は再び沈んだ。
陽はとっくに沈んでいる。もうじき寒さがいっそうひどくなるだろう。すでに眼前のひとの背がぼやけはじめた。長いこと寒さにさらされていたせいである。うつむきながらざくざくと雪を踏む。きっと今の自分の顔はひどく青白いのだろうと考えている。…プロイセン君、ついたよ。途端にそのひとが振り返る気配がして、プロイセンははっと顔をあげた。ぼやけた視界をぐんと巡らせる。…花は。花など花の根などなかった。見るかぎり白い。かじかんでうまく喉が上下しない。しかしながら、そういう声でもここではよく通っていた。 嘘だよそんなの、眼前でそのひとが笑っている。ここに咲く花なんてないんだ、ましてや今は冬でしょう、寒いロシアの冬に咲く花は、珍しい。こんな身近な場所では咲かない。そのひとは体を折って笑っている。プロイセンはあっけにとられた。そうしてひと呼吸おいて、今は春だと、春の訪れを知らぬそのひとを、哀れにおもった。ふ、とぬけるような笑みがこぼれる。妙におかしくなってしまう。…さみしい男だな。君もね。てめえと一緒くたにするな。冬は僕らの季節でしょう。言われて、どうしてだか息を呑んだ。途端に喉がひきつる。奪われていたはずの感覚が戻ってきたような気になった。…は、わけわかんねえこと言ってんじゃねえよ。 来た道を引き返す。胸のへんが重い。待ってよプロイセン君。背のほうで楽しげな声が響く。冬は暗くなるのがはやいね。隣にそのひとの高い肩がある。…僕たちの冬はいつ終わるんだろうねえ。沈んだ声であった。その声にはっとする間もなく、腕をひかれてつんのめる。わ、転けないでね、もうそのひとの声はやわい。はたと揺れたマフラーに雪が溶ける。もう春なのになあ、とは言えなかった。そのひとの言葉が胸のうちで蟠って、プロイセンは苦い顔をする。春の訪れはまだみえない。
春を弔う ( 20110401 / 露×普 )
エイプリルフールに寄す