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左手に宿るもの

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 街道の村でリオウに出会ったとき、何故かその存在が目に焼き付いて離れなかった。導かれるように心惹かれたのはやはり星の巡り合わせであったのだと、こうして石壁造りの城の中を歩んでいて思う。数多の星が集うここは、先の戦争で過ごしたあの湖上の城を思い起こさせた。
 心地良いざわめき、暖かな人々の息遣いがじんわりと染み渡ってゆく。リオウの人柄に依るものだろうか、戦いのさ中であるのに、ここはとてもやさしい空気に満ちていた。

 そうしてゆうるりと城を巡っていると、時折見知った顔に出会った。フッチの変容とも言える成長に皆が皆一様に瞠目する。微妙な居た堪れなさを感じながらも、懐かしい思い出や近況などを軽く語り合い別れた。
 ほんの短い間にもうすっかり腕に馴染んだ愛しい重みは今はない。生まれたばかりの竜だ、人の赤子と同じによく食べよく寝、そうして育つ。今日の柔らかな陽射しに眠りへと誘われたのか、ブライトは日当たりの良い小さなベッドの中で静かに微睡んでいた。
 過去の己を知る彼らにブライトを紹介出来なかったのは残念であったけれど、これからいくらでもその機会は訪れよう。皆の反応を想像して、フッチはくすくすと笑った。

「あらあら。ご機嫌ね、ぼうや」
 施設区へ出たところでそう声が響いた。振り向いたそこは紋章屋──まさか、と軽い足取りで入り口をくぐる。
「ジーンさん!」
「ふふ、こんにちは」
 室内に於いてなお煌めく銀の髪を高く結い上げ、艶やかな衣装を身に纏った妖美な女性。彼女もまた先の戦いを共にした仲間であった。変わらぬ蠱惑的な雰囲気に腰が引けつつも、懐かしさが勝る。
「お久しぶりです、ジーンさん」
 丁寧にお辞儀をして、微笑む。ジーンもまた、目を細めてゆったりと笑みを浮かべた。その所作の一つ一つに知らず頬が染まる。温かく見つめる眼差しも、薄布一枚の露出多の衣服に包まれた豊満な肢体も、何となく直視することは憚られてどぎまぎと俯いた。
 そんなフッチにジーンの笑みがますます深まってゆく。自身のくちびるに添えていた手を伸ばし、フッチの未だ幼さの残る頬を撫ぜるように包んだ。
「ぼうや、とても良い顔になったわね──手にしたもの、今度こそ離さないのよ」
 ブライトのことだろうか、フッチはその言葉に瞠目し顔を上げた。何もかもを見通す深い海色の眸に吸い寄せられるように視線が絡む。知らず震えるくちびるを引き結び、そうしてしっかりと──頷いた。そう、もう決して離しはしない。今度こそ、守りぬくのだと。もう二度と、無様に斃れるようなことはしないのだと。
「……良い眼だわ」
 そう最後に一つだけ微笑んで、ジーンはフッチの頬へと触れていた手をその左手へと滑らせた。
「折角のご縁ですもの、何か宿していく?」
「あの、でも僕、魔法はあまり得意じゃなくて……。何か強化系でもあれば、」
 恥じるように頬を染め俯くフッチに、ジーンは目を瞬かせた。ゆうるりと傾げる首に銀糸がかかる。
「あら。でもあなた、風の加護があるようだけれど?」
 少年を護るように、柔らかく風が流れている。それはとても微かなものであったけれど、確かにそこに在った。ジーンの視線を辿るようにフッチは自身を見やる。ふうわりと感じる暖かな流れ──
「僕が竜騎士だからでしょうか? 竜と空と風と共に生きてきたから、なのかもしれません」
 眸を閉じて深く息を吸う。全身に行き渡るもの──絶望しあんなにも焦がれた空にしかないと思っていた風は、こうしていつも自身の傍にあった。そのことに気付いたのは、ずっとあとのことだったけれど。
 そうして、脳裏にあのこまっしゃくれた少年の顔が浮かぶ。思わず噴き出すように笑った。
「そういえば、ルックもそんなことを言っていました。僕が泣くと風が煩いとかなんとかって」
 冷たくも優しい思い出に、くすくすと笑みが漏れる。フッチのそんな様子に釣られるようにジーンも微笑んだ。
「あの風のぼうやね。あの子の魂は風そのものだもの──良くも悪くも──いいえ──そうね、風に愛されるあなたが気になってしょうがないのよ。可愛らしいじゃない」
 そう言って、触れていたフッチの左手にもう片方の手のひらを重ねた。白く細い指がくすぐるように甲を撫ぜる。チリと熱が走り淡く光を放つと、身の内に紋章の宿る高い音が響いた。
「あなたは風の紋章と相性が良いようだから。左手で、良かったかしら」
「え、あの、」
 甲に淡く光る風のしるしに、フッチは目を瞬いてジーンを見やった。魅惑の紋章師はそっとフッチのくちびるへと指を添え、イタズラな笑みを浮かべる。
「再会の記念と、あなたの未来への祝福よ。差し上げるわ。受け取ってくださらない?」
 くちびるに触れる冷やりとした熱に耳まで赤く染めて、そうして思い出したようにフッチは慌てて身を引いた。左手を抱いて、俯きながらもごもごと小さく呟く。
「あの、ありがとうございます……大切にします」
「嬉しいわ。風のぼうやにもよろしく伝えてね」
 頬を染めたまま、もう一度だけお辞儀をする。ルックにどう伝えたものかと、内心複雑な思いを抱きながら。

 外へ出ると陽射しが痛く目に沁みた。思わず左手を翳す。その甲には、今しがた宿ったばかりの風のしるしがあった。淡く光を放つ紋章は、いつしか見慣れたルックのそれとは違う意匠だ。けれど眷属である証が何となくくすぐったく思えて、きゅうと握り締め──そうしてそっと、くちづけた。
作品名:左手に宿るもの 作家名:lynx