春の金木犀
「金木犀の薫りがする」
のどかな陽射しの休日、午後のお茶の準備をしていたときだった。
シュミットが目を細めて鼻先に神経を集中させている。
ひくひくと鼻先が動くのが、彼らしくなく少しかわいい。
なんて言ったら憤慨するかもしれないが。
「ええ、」
エーリッヒは手を止めてにこりと笑う。
アジアには広く分布しているというその木は、ドイツではあまり見ない類のものだ。
しかし、誰の好みなのか、宿舎の庭には数本の木が植えられていた。
「庭の金木犀が咲き始めたんです」
きっとその薫りがするんですね、と、一分の隙もない笑顔を作ったのだが、
「……………………嘘をつけ、あれは秋の花だろう」
長い沈黙の後、今の時期に咲くはずがないと疑いの眼差しを向けられて、あっけなく両手を上げた。
「はい」
「?」
「嘘です」
「……お前まで、くだらん風習に乗るな」
呆れて言いながらも菫色の瞳に笑みが見え隠れしているから、本気で気分を害したわけでもないだろう。
まあ、4月の風物詩、季節行事にのっとった、罪のない嘘だ。
そういう冗談を解さないほど石頭ではない、シュミットは。
二人、目を合わせて笑った。
と、シュミットがまた鼻をひくりとさせた。
「それはともかく、じゃあこの薫りはなんだ?」
もう一度疑問符が浮上して、シュミットが首を傾げる。
疑問や疑念があるとそのままにはしておけないのがこのひとの性質だ。
ほのかにだが、部屋にたちこめるのは確かに金木犀の甘やかな匂い。
いつも以上に敏感なのは、実はこの手の薫りをシュミットが好むからだと知っている。
秋の日に、満開に咲く花の下にシュミットが佇んでいるのを何度も見た。
思い出して微笑んで、エーリッヒは手元の正解を指し示した。
「紅茶です。香り付けがしてあるんですよ」
店先に漂う、空気がとろけるような薫りに惹かれてつい買ってしまったのだ。
一番に味わうならシュミットと一緒のときと決めていた。
しかしそうとは言わずに
「お気に召しました?」
それだけを聞けば、ふんとシュミットは腕を組んだ。
「まあまあだ。もっとも、飲んでみなければまだ分からないがな」
これは、実は結構喜んでいるときの反応だ。
嬉しいからといって、手放しに喜んだりしないのも、このひと。
「どうぞ」
くすくすと笑いながら差し出したカップは、しかし躊躇いもなく受け取られて、シュミットの口元に運ばれた。
こくり、一口。
口の中に広がる薫りを反芻するように目を閉じて味わって、
「………」
途端、不機嫌な顔になった。
カチャリとカップを置く予想外の反応に、目を瞬く。
「お前、腕が落ちたか?」
「え、」
シュミットの不機嫌な顔。
そんなはずはない。
お湯の温度だって茶葉の量だって蒸らす時間だってきっちり計って、だってほかならぬシュミットに出すものをいい加減にするはずがない。
シュミットの好きな薫りで、だからこそいつも以上に気を遣って淹れたのだ。
そんなはずはない、はずなのだ。
けれどシュミットの不機嫌顔はそのままで、いったい何がいけなかったと必死に自問する。
変わらず不機嫌顔のシュミット、は、じっとエーリッヒを見つめていて、どうしよう、と焦るばかり。
「すみません、すぐに淹れ直して」
新しいのを用意しますからと言いかけたところを、一言、遮られた。
「エーリッヒ」
「は、はい」
「嘘だ」
たっぷり十秒間、エーリッヒの動きが止まった。
「………………………は?」
「だから、嘘だ」
「……は………?」
「仕返しだ。嘘をついてもいい日なんだろう?」
にやりと覗き込む顔がとてつもなく楽しげで、先ほどまでのあれは何だったのだと言いたくなるほどで。
思い切り肩から力が抜けた。
脱力した、とは、まさにこういう状態をいうのだろうと、そんな関係のないことを頭の片隅で考える。
「………くだらないと思うなら、乗らないでくださいよ」
4月恒例の行事を、くだらん、と表現したのはシュミットだ。
まさか彼自身が乗ってくるとは思わなかった。
「くだらんが、お前のそういう顔が見られるなら、悪くないな」
そして、一度置いたカップを再び手にとって、もう一口。
先程と同じように目を閉じて、広がる薫りを味わうように。
「………どうですか?」
先程のは嘘だとはわかっても、つい聞き方が恐る恐るになってしまうのは仕方がない。
シュミットがゆっくりと瞼を上げた。
「………美味い」
ほっと息を吐くような顔で言ったシュミットを、しかし、それだけでは信じられずに聞き返してしまった。
恐る恐る、
「それも嘘じゃ、ない、ですよね……?」
シュミットは小さく両腕を開いて、
「さあ、どうだろうな?」
自分をからかうときにこういう笑みを浮かべるのもこのひと、だ。
「…………もう飲んでいただかなくて結構です」
なんだか少し腹が立って、カップを取り上げようと手を伸ばした。
が、それより早くシュミットが身を翻す。
「何を言う。俺のために用意したんだろうが、わざわざ」
わざわざ、の部分にアクセントを置いて言うのに対抗して、
「違います。僕が飲みたかったんです、あくまで、僕が」
言葉を区切って強めて言う。
しかしシュミットはまったく揺るぎもしない。
「どうせ嘘だろう、そういう日だからな」
まったく、呆れるくらいに揺るがない。
それがこのひと、であるからこそ、自分は安心していられるのだけれど。
「嘘じゃありませんよ」
「なんだ、今日は強情だな」
「……嘘じゃ、ありません」
強情で、言っているわけではない。
意地を張っているわけでもない。
シュミットのため、それもある。
けれど、シュミットの好きなものを用意して、シュミットが喜ぶ横で、自分も一緒にいたかった。
だからこれは、最終的には自分のためなのだ。
表情を和らげたエーリッヒに、シュミットは肩を竦めた。
「まあいい。……俺のも、嘘ではないからな」
「?」
「いい薫りで、いい味だ。最高だな」
カップを掲げるようにして、シュミットが目を細める。
「喜んでいただけたなら、よかったです」
「何より、隣にお前もいることだしな」
「………はい」
微笑むと、シュミットもご満悦の表情で笑った。
エーリッヒに関するときにだけ、喜びや満足を惜しみなく表すのもまた、このひとなのだ。
2011.4.1