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クライマーズハイ

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「あー小野田……俺と付き合う、か?」

 練習を終え、着替えに手間取っていつの間にか二人きりになっていた、夕陽のオレンジ色に包まれた部室で、ポツリ、巻島さんが呟いた。
「え、…あ、この後ですか? 何かお買い物ですか?」
 いいですよ、と続けようとして振り向くと、巻島さんがその玉虫色の髪を乱暴に掻き毟り、困ったような顔をしていて驚く。
 …どうした、んだろう…?
 言い知れぬ不安が心を過ぎり、遅れて閉じたロッカーの扉が嫌に大きな音を立てた。
「そうじゃなくって…あー…」
 髪を掻いていた手をそのまま顎の方へやり、考え込んでいる。
「…巻島、せんぱい…?」
 名前を呼ばれて動いた視線が、カチリと合う。
 真っ直ぐにこっちを見つめるその目に、心臓が信じられないほど跳ね上がる。

 ――――もう、逸らせない。

「巻島先輩? …あ、の…?」
 いつも呼んでいる名前を口に乗せるだけなのに、口の中がカラカラに渇いていた。
 どうしよう、この目に見つめられたら、動けなくなる。
「あのな、俺、お前のこと、好きなんだわ」
 こちらへ歩み寄りながら、巻島さんはその歩調と同じくゆっくりと一言一言を紡ぐ。
 窓から差し込む夕陽に照らされて、巻島さんの玉虫色の髪が独特の色に輝いては翳る。

「だから、俺と、付き合おう、って言ってるんっショ、小野……坂道」

 普段は呼ばれない名前を呼ばれ、また心臓が跳ねる。
 鼓動がうるさいくらい耳に響いて、巻島さんの声さえ掻き消そうとする。
 ――――いま、なんて、いった、の?
「え、あ…」
「イヤか?」
 あと一歩の所で立ち止まり、巻島さんがこちらを見下ろす。
 逆光で、表情がよく見えない。
「あ、えっと、……え?」

 今、すき、って言った? 付き合おう、って言った? 誰と誰が? ボクと? 巻島さんが?

 自問自答を繰り返し、頭の中がパニックを起こしてしまって、答える余裕などない。
 だって、巻島さんは総北のエースクライマーで、物凄く早く山を登ることができて、カッコよくて、憧れてて―――。
 そっと、巻島さんの手が伸びてきて、右手を掴んで持ち上げる。
「今すぐ返事しろなんて言わないッショ……と言いたいトコだが…今返事してくんねぇと、俺がダメだわ」
 巻島さんの長く細い腕に導かれ、その左胸に掌があてられる。
 ひどく早い鼓動が制服のシャツ越しにも分かって、自分の鼓動と見分けが付かない。
 まるで、レースの最中のような、鼓動の早さ。
「な? 心臓、ひでぇだろ? 返事もらうまでこうだったら、さすがの俺ももたねぇッショ。だから…10数えるうちに、答えて」
 見上げた巻島さんの顔が、切なげに歪んでいた。
「え―――…えっ!?」

「10」
 すきって、付き合うって、巻島さんと、ボク?
「9」
 そんなこと言われても、分かりません。ボク、付き合ったこととかないし、とか。
「8」
 そもそもボク達男同士ですよ、とか。
「7」
 でも先輩はカッコよくってボクの憧れで、とか。
「6」
 色々言いたいのに、声が出ない。
「5」
「…ま、待ってください! そんな、の、突然言われ、ても…っ、ボク、考えたことなく、って」
 ようやく搾り出した声は掠れている。
「だから、今考えればいいッショ………4」
「え…っ」

 未だ巻島さんの左胸にあてがわれたままの掌から伝わるのは、さっきと変わらぬ早い鼓動。

 考えたことはない、考えたことはないけど、巻島さんと一緒に走るのは楽しい。
 巻島さんと一緒にいるのは楽しい。
 巻島さんが笑ってくれると嬉しいし、辛いときは支えたいと思う。

 そうして、できればずっと、一緒にいたいとさえ思う―――。

「3」
 ぎゅう、と掴まれた手に力が込められた。
 伝わる鼓動と熱が、巻島さんが真剣なことを物語っている。
「2」
 これを断ったら、巻島さんは離れていくのだろうか――――ふと浮かんだ考えに、ゾクリ、と背筋を冷たい恐怖が走りぬけた。
「い」
「待って! つ、付き合います! だから、待って下さい!!」
 巻島さんが「1」を言い終わろうとするのを遮り、思い切って声を上げた。怖くて顔が見れなくて、きつく瞼を閉じて。
 ……だって、イヤだったんだ。
「……本当に?」
 信じられない、とでも言いたそうな顔で、巻島さんが覗き込んでくる。
「ほ、本当です。ボ、ボクでよかったら…」

 巻島さんと一緒にいられなくなるなんて。それだけは、イヤだ。
 ――――その気持ちを、何と呼ぶのだろう。

「……ん。じゃあ、これからよろしくな、坂道」
 恐る恐る瞑っていた瞼を開けると、満面の笑顔がすぐ近くにあって驚く。
「ま、き…っ」
「お前、色々ニブそうだから…今はここまで」
 な、と言って、鼻先に軽くキスをした。

 繋がったままの手から伝わる鼓動は、相変わらずどちらのものかは分からないほど強く、同じ早さで時を刻んでいた。
 それはまるで、最高の山を登るときと同じリズムで。




end.
作品名:クライマーズハイ 作家名:葛木かさね