色彩による独占
目を覚ますとあいつの匂いが染み付いた布団。隣にあいつはいなくて、そのまた隣のリビングからいい匂いがする。
それ事態はいつものことなので、寂しいとは・・・思わないでもないが、それは今問題ではなく。
たとえば芳しい畳のリーフグリーン。
今はただの灰色。
目の色の所為なのかなんなのか、まだ誰にも言っていないその症状は俺たちを待ち受けるある現象を彷彿とさせる。
月に1度は色彩がわからなくなる、なんて。
『ギルベルト君?起きましたか?朝ごはんできましたよー』
ああ、あいつが呼んでる。バレないようにと毎回必死だ。何が怖いってバレてもこいつは表情に出ない。
それで知らない間に弟に知れているなんていうことが今までいくつかあった。
寝間着を調えて襖を開けると、盆を持つモノクロのあいつ、菊に早く座ってくださいといもしない親のように言われる。
用意も殆ど済んでいるようなので、素直にすとんと腰を下ろして卓上を見ると見慣れた日本食。
この灰色に見える魚はなんて言っただろうと思い返していると、台所から菊がマグカップを2つ持って、卓の上にごとんと置いた。
「じゃあ食べましょうか」
「おう。いただきます」
菊の作る食事は美味い。ホントは俺が作ってやるべきなんだろうけど、残念ながらこいつには適わない。うめめえ、と呟きながら食事をして、最後。
マグカップを手にとって、俺は過ちを犯した。
「お前んちでコーヒー出すなんて珍しいなぁ」
「・・・そう、ですね」
ごくり、と一口飲んだ瞬間に血の気が引く。
「まあ、紅茶なんですけどねえ。ストレートの」
「う・・・あ・・・」
瞼を下ろして、表情の読めない恋人がマグカップの、紅茶を飲む。あれは濃い色の飲み物だし、カップも濃い色のものだから気がつかなかった。
ことんと彼がカップを下に置くのを聞いて、びくりと背筋が震えた。
「・・・時々、様子がおかしい日があるのは知ってましたよ」
「な、なあ・・きく」
「気にするなとおっしゃるなら、ルートヴィヒさんには伝えません」
「や・・あのな」
「それだけです」
目をゆるりと開いて、無表情に俺の食器もまとめて洗面台に運んでしまう。珍しくあからさまに、怒っている。これがわざと怒っているのを知らせてくれているのか、隠しようもないほど怒っているのか。腰が引けているのを自覚しながらかちゃかちゃと音を鳴らす恋人の背後にそうっと寄って、彼の肩に額を乗せる。
ぴたりと彼の動きが止まった。
「・・・ごめん、なさい」
「なにが?」
「その、黙ってたこと。お前に心配掛けたくなくて・・」
「・・・黙られた方が、心配になるとは思わなかったんですか?」
「悪い、・・・気付くと、思わなくて」
「貴方のことなら、なんだってわかりますよ」
ゆっくりくるりと振り向いた彼は眉を寄せて、泣きそうな顔で、また珍しく縋るように俺の腰に腕を回した。
「一体どうしたって言うんです?目がおかしいのですか?」
「・・・ありがとな、もう治ったから心配すんな」
悲しげに問い詰められるのが心地いい。笑んで深く抱き締めてやると菊が怪訝そうに俺の名前を呼んだ。大丈夫、と返して彼の顔を見れば猜疑の篭った目を向けられる。なんて綺麗な漆黒。嘘を吐くのは心苦しいけれど案外心配性の彼を苦しませるわけにはいかない。それにこれがあるからどう、ということもないのだ。少し見えづらいだけ。
一応納得して、それでも少し不満気な菊がくるりと食器に向き直る。さっさと片付けてしまおうとしてるらしい。
そのとき、あ、と口に出したのは一足遅くて、がしゃーんと盛大に俺の茶碗が割れる音がした。
「あー・・・やっちゃいましたね。・・痛っ」
「お、おい!大丈夫、かよ」
見れば片付ける際に切ったらしくダラダラと血が出ている。赤い、血。そこで俺はふと思い出す。俺の目は、色彩を認識できないんじゃなかっただろうか。ああ、もしかして。見た恋人の白い肌はよくよく見たら薄いバター色。思わず頬が釣りあがって、割れた食器を片付け手を洗う恋人の手を取って舐める。
「こら、汚いですよ」
「へーきだって。今洗ってただろ」
「そうじゃなくて口の中の雑菌の話です」
少しだけ眉を潜めた菊はそれでもくすりと笑って言う。
「まあでも貴方の菌で化膿するなら悪くないですね」
仰ぎ見た菊の口の中も、赤い。モノクロの世界しか認識できない今の俺がこいつの口の中を赤いと思う。よくよく見ればそうだった。電気のついていない室内では暗くて、メラニンの足りないこの眼ではよく見えなかった。日本人にしても白い肌、漆黒の髪と眼に濃い灰色の着物で惑ってわからなかったが、今の俺の視界でもまぎれもなくこいつだけは色を持っている。
「ギルベルト君?」
怪しんだように赤い口を開いて名を呼ばれる。途端に色づいて見えるその唇にちゅう、と吸い付いて首に絡みつく。堪らなく、幸せだった。更に怪しんだ様子でどうしたんです、と聞かれるがなんでもねえと返した。まだ出されたまま濡れたままの手の平をするりと撫でると痛いのか少し眉が動く。ちらと見ると血が滲んでいた。赤い赤い血が水道水と俺の唾液に滲んで複雑な模様を作る。それさえも嬉しくてきゅう、と俺より幾分小さい手の平に指を絡めた。
「・・・ギルベルト君、貴方まさかまだ目が・・」
「なあ菊、俺今すげえ幸せだぜ」
「は?」
きっとこのモノクロの世界は今日中か明日か、いつか元に戻る。そして忘れた頃にまた見えなくなる。気付いていないだけでその頻度は段々と大きくなっていくのだろう。そしてついにはこいつしか見えなくなればいい。可愛い弟やこの国が誇る美しい景色が見えなくなるのは残念だけれど、それでも殆ど気にはならない。あるいはこいつの声しか聞こえなくなるのもいい。
ああ、将来が楽しみだ。