憎さ余って愛しさ千倍
秋が嫌いな少女だった。
秋に限らず、少女は全ての季節を、全てを憎んでいた。そして、蔑んでいた。春の桜並木にはさっさと散れと雨乞いをしたし、夏の向日葵畑が一面枯れ逝く様は胸の透く思いがしたし、冬の椿が雪に落ちる度誰か死んだのだと心が躍った。
そして、少女はとりわけ、秋の竜胆が嫌いだったのだ。
「おや…こんなところでお会いするとは。奇遇ですね。どうしたんですか」
ちっ。心中で舌打ちする。声の主は、今一番見たくない人間だった。
だからこそ、少女はしゃがみ込んで竜胆を眺めたまま、いつも通りに返事をする。
「ええ、綺麗だなぁと思って!」
何が綺麗なものか。こいつさえいなければ、端から荒らしてやったものを。
「私、竜胆が大好きなんです」
だが、そんなことはおくびにも出さない。出してはいけない。
少女は笑う。いつも通りに。決して、己を見下ろす影を見ぬままに。
「…私は、竜胆が苦手なんです」
「あら、どうしてですかぁ?こんなに…可愛らしいのに」
―少し、驚いた。上手く誤魔化せただろうか。
「竜胆は昔、えやみぐさと呼ばれていました。疫病み…そう、流行り病のことです」
「流石、先生お詳しいんですね」
「ええ、この花のせいで…、とは言いませんが、虐められましたから」
「…へぇ」
どう答えたものか。暫くは様子見だろうか。
少女は、たただだ見ているのも妙かと、紫の釣鐘に手を伸ばす。
「私の名前、こんなでしょう?そして、実家の側に沢山の竜胆が咲くことで有名な場所がありましてね」
―何となく、先が読めた、釣鐘に触れる指先に、知らず力が籠もる。
「ある秋、一帯で妙な風邪が流行ったことがありました。私は運良く…いえ、良かったのかはわかりませんが…皆がバタバタと倒れる中、元気だった。そして、残念なことに、死者が出てしまった」
「…」
「お前の所為だ、と散々な目に遭いました」
乾いた笑いを零す影に、少女の指先はぶちりと花弁を千切ってしまう。
「でも、生きてるじゃないですか…」
「え?」
「先生は…生きてるじゃないですか…」
「…はい、幸か不幸かわかりませんが」
―ギリッ。噛み締めた奥歯が鳴った。
「幸せに決まってるじゃないですか…!」
震える少女の指先は、無残な姿を晒す釣鐘ごと、竜胆を引っこ抜いてしまった。
「先生がそんな名前なのも、病気が流行ったのも、竜胆が咲いていたのだって、何にも関係ない…!性質の悪い神様の悪戯でしょ!?」
ああ、どうしよう。ずっと守っていたものが、呆気なく崩れていく。
「でも、私は…っ!」
私は―――どうすれば良かったの?
「わたし…は…っ」
言うことをきかない手は、ただ美しく咲き誇るだけの花々の命を奪っていく。
「何でよ…っ、何で、私は…!」
―――生きてるの?
その叫びは、背後から伸びた大きな掌に口を塞がれ、無かったことにされてしまう。
「っ、あ…」
「そうでしたね」
「う…」
「今、こうして貴女を抱くことの出来る私は、幸せ者でした」
耳元で囁かれる、低く澄んだ声。
自分の存在などすっかり包み込んでしまう影は、大人の男でしかなく。
「さあ、もうやめておあげなさい」
「あ、ああ…」
「貴女に罪がないように、この花達にも罪はありません」
「…っ、ふ…あああああ!」
慟哭を全て受け止めてしまう掌に、少女は噛みついた。
けれど吐息一つ乱さない影に、殺めることしか出来ぬ手を握ってくれる影に、嗚咽の赴くまま少女は呟いた。
「せんせ…?私、悪い子なんです…」
「ええ」
「だから、帰るお家がありません」
辺りを流れ始めたゆうやけこやけに消え入るように、影は再び、少女に囁く。
「それなら、私が攫ってあげましょう」
その声が何だか嬉しそうで、少女は今度こそ聴こえるように舌打ちした。
「断罪されるのは、私だけで十分です」
答える影に、もう少女は何も言わなかった。
このまま、この影に喰われてしまおうとだけ、思った。
―「どうにも解せませんね」
「何がでしょう?」
「貴女は、私のことが嫌いなんだと思っていました」
「その解釈で間違っていませんが」
「でも、だったら、どうしてこんなことをするんですか」
「嫌いだけど、好きだからです」
「…玉虫色の返答は、勘弁して頂けませんか」
「うふふ、先生って本当馬鹿」
あれはいつのことだったか。(いや、あんなこと、なかったのかも知れない。)
結局自分はどこも変わらないのだ。
響く鐘の音をぼんやりと鼓膜に感じつつ、少女は浅い息を繰り返した。そして、鐘の音のあるうちにと、下腹に収まる熱に、小さく喘いだ。
『憎さ余って愛しさ千倍』
作品名:憎さ余って愛しさ千倍 作家名:璃琉@堕ちている途中