ないしょのはなし
僕は今、チャットってものがこんなに大変なものなのかってことを、心底痛感してる。
いや、ただ参加してるだけなら楽だし楽しいんだけど、今の、これは、どう考えても、
チャットルーム
内緒モード【臨也さん、いい加減にして下さいよ!】
内緒モード《えー、なんでー?正直に帝人君に触れたいっていうのがそんなにイケナイこと?》
内緒モード【そうじゃなくてっ!】
内緒モード《じゃあ、いいの?》
内緒モード【や、そういう意味でもなくてっ】
さっきからずっと、内緒モードで甘楽さんこと臨也さんが僕に触りたいだのキスしたいだの、己の欲望だけをつらつらと話しかけてくる。
当然今はいつものチャットの最中で、ルームの中にはセットンさんや罪歌さんたちもいるので、僕は内緒モードとオープンチャットの内容を誤爆しないかがさっきから気が気じゃない。まるでふたつのチャットに同時に入っているような感覚だ。しかもセットンさんはキータッチのスピードもすごく早いので、こちらの返信が遅いのにもすぐに気づくはずだ。
[…ってか太郎さん、今なにか作業中?]
【えっ、な、なんでですか?】
[や、いつもより発言が遅い気がしたから。気のせいならいいんだけど]
《あっ、太郎さんもしかしてぇ〜、内緒モードで誰かとこっそりお話してるんじゃないですかあ〜?》
【なっ、何言ってるんです甘楽さん、そんなのありませんからっ】
[いや、まあ別にそれならそれでいいんですけどね]
【だから違いますってば】
自分から内緒モードでちょっかいをかけておいて、オープンでもその話題を出すなんて信じられない。しかも、こともあろうかその本人は、今ぼくの真後ろにいるのだ。僕が先にチャットをしてたら、さっき帰ってきた臨也さんがそれに気づいて、同じように自分のパソコンを取り出して後ろに座った。話しかけてこないなと思ったらこれだ。明らかに、僕をからかうためにやってる。膝の上に置いたノートパソコンのキーを弾く音がリズミカルに聞こえてくるのが忌々しい。こっちはそんな余裕すらないっていうのに。
内緒モード【臨也さんっ、どういうつもりなんですか!?】
内緒モード《えー、なにがあ?私わかんなぁ〜い☆》
内緒モード【こっちでまで甘楽さんにならないでください気持ち悪いです】
内緒モード《帝人君ひどっ!そんな一息で言わなくてもっ》
内緒モード【ってそんなことどうでもいいんですって!セットンさん敏感そうだから気づかれるかもしれないじゃないですか!】
内緒モード《えー、そうかなあ?けっこう抜けてるとこあると思うけどー?》
内緒モード【何知り合いみたいなこといってるんですか。ほんとにいい加減に…】
内緒モード《だって本気で、帝人君に触れたいんだよ。もうそろそろ限界。あー、やばいな。我慢するのも飽きちゃったし、襲っちゃっていい?》
【っ!! いきなりなに言っ…】
あまりに慌ててしまったせいか、臨也さんに対する内緒モードの返事をオープンチャットで入力してしまってはっとする。
セットンさんたちが不思議に思ってどうしたのかと口々に聞いてくるけど、誤爆ですっかりパニックに陥ってしまった僕には、何も返すことができなくて、
液晶を前に一人でオロオロしていたら、背後で楽しそうに小さく笑う声がきこえて、
《あーっ、超大事な用事思い出しちゃいましたあ〜。お先に落ちますねぇ。お疲れ様でしたっ☆》
──甘楽さんが退室されました
[おやすー、って間に合わなかったか]
{お、おやすみなさい}
返事も待たずに甘楽さんが退室してしまった。
ログ画面に甘楽さんに対するみんなのおやすみの挨拶が投げかけられているまさにその瞬間、
「我慢限界。ハイ、時間切れー」
「わ、わあっ」
肩口から突然現れる腕。背後からぎゅっと抱きしめられてあっさりと背中からその胸に倒れ込んでしまった僕の手はキーから離れ、自分に向けられるメッセージに返信することもできずに。
「い、臨也さんっ、待っ…」
「だめ、待たない。今まで散々待ったでしょ?」
「そうじゃなく、て…っ、チャットが…」
「ああー、帝人君も落ちちゃえばいいじゃない。はい、大事な用ができたので僕もこれで…っと」
後ろから僕を抱きしめたまま、僕の代わりに軽やかにキーを叩いて送信。そのまま流れるように臨也さんが退室ボタンを押すと、ページが切り替わり、もうみんなのレスを見ることもできなくなった。
「これでいいでしょ?」
「いいわけないじゃないですか…」
「いいんだよ。チャットはもう終わり。今からは二人だけの時間なんだから」
振り向いた瞬間、唇を浚われて反論できなくなった。いや、そもそも反論なんか、最初から許されてなかったのかもしれない。
切り替わってしまった液晶の画面に目を向けることもなく僕の視界は臨也さんの端正な顔で覆われ、そのまま翌日の朝までパソコンに触れることはなかった。