昼下がりの間奏曲
「……おい、人のカバンから何出してやがんだ」
「見てわかりませんか?」
ひよのは可愛らしく首を傾げてみせる。その手には、歩の青い箸。
そして胸の前できちんと手をあわせていた。
「鳴海さんのお弁当をいただこうとしてるんですよ」
―昼下がりの間奏曲―
時は、二十分ほど前にさかのぼる。
歩は、昼休みになるとあくびを噛み殺しながら新聞部へとやってきた。
昨日遅くまでストックのための水餃子を作っていたので眠いのだ。でもこれでしばらくの弁当のおかずのアレンジには困らないだろう。
仮眠を取ろう、と思った歩が選んだのは、新聞部の部室。
いつのまにかこれが当たり前になってしまっていたから、始末が悪い。
前は屋上が静かで気に入っていたのだが、バカ娘が文字通り叩き起こしにくるのでまだ覚悟ができる部室で昼寝したり昼食べたりしている。
そんなわけで、今日は昼寝と決めた歩は、昼ご飯を食べる前に机に突っ伏して仮眠を取ることにしたのだった。
十数分後。
案の定やってきたひよのの扉の音で、歩はうっすらと意識がもどった。
しかしこれで起きるのは癪なので、起こされるまでは寝てよう、とまた浅い眠りへと戻る。
いつもは彼女はそんな自分を妨害するのがとても楽しそうに、それはもうにこにことして、
「なーるーみーさん、起きて下さい!部室は仮眠室じゃないんですよ!」と耳元で大声を出して起こすのだった。
が。
今日に限っては、いつもとは違った。
ひよのはなぜか歩を起こさず、しばし立ち尽くしたあと、そろりそろりと歩のカバンに近付いた。
そしてこともなげに一番奥にあったはずの弁当包みをひょいと取り出すと、椅子に座り、包みをほどきだす。
最初はぼんやりと、そしてだんだん意識を取り戻してからも狸寝入りして様子をうかがっていた歩だったが、ひよのがいただきます、と手をあわせたのですぐさま非難の声をあげたのである。
こうして冒頭の会話にもどる。
「珍しく寝かしてくれるのかと思ったらこれか。
アンタいい加減俺の弁当食べるのやめろよ」
「そう思うんだったらここでお弁当食べる前に眠るのやめたらいかがですか?
こぉぉんなおいしいお弁当を目の前に置いておいて食べちゃダメ、なんて卑怯ですずるいです最低ですっ!
私に食べて下さいと言わんばかりじゃないですか!!」
「置いてあるだけで食べるな!だいたい、アンタ今俺のカバン漁って取っただろう」
ひよのはやれやれ、と呆れたように大げさに肩をすくめて首を振る。
わざとらしい。
「やはり起きていたんですね。止めなかったからいいのかと思いましたよ」
「そういう問題じゃないだろ!」
「それに言わせていただくと漁ってませんし、物音たてずに取りましたし」
「気味が悪いだけな上にそういう問題でもない!」
やれやれ、とひよのは笑顔で肩をすくめる。肩をすくめたいのはこっちだというのに。
「そんな怒らなくってもいいじゃないですか~。私と鳴海さんの仲じゃないですか」
「他人が聞いたら大いに誤解しそうな発言を毎度毎度さらっと言うな!弁当返せ!」
勢いよく手を前に出して、歩は弁当の奪還を試みる。が、あと少しのところでひよのにひょいとかわされた。
歩が眉間にしわを寄せるのを見ているのかいないのか、むむむ、とひよのはうなる。それならば、と呟くと、彼女はすっと人差し指をつきたてた。
「しかたないですね。
それでは鳴海さんがピアノを聞かせてくださるなら手を引きましょう」
「何でそうなるんだよ」
「まぁそんなのどうだっていいじゃないですか。
聞かせてくださいよ~」
「全然弁当と関係ないじゃないか」
「でも、鳴海さんお腹すいたでしょう?」
ちょうどいいあんばいに、歩の腹の虫が可愛らしい音を立てた。すっと、歩の頬に朱が走る。
「ほらほら。ピアノを一曲弾けばオッケーですよ。
この際『ラ・カンパネラ』でかまいません。『革命』でも『カルメン』でもかまいませんよ」
「なんで腹が減ってる時にわざわざカロリーの消費が激しそうな曲を選ぶんだ!第一カルメンはオーケストラだろ」
「そのくらい鳴海さんなら即アレンジできるじゃないですか。
ほらほら、音楽室ならすぐそこです。聞かせてくださいよ~」
じりじりと、ひよのはお弁当箱を歩の眼前にぶらさげて迫る。
しかしその近づけた一瞬の隙をついて歩は弁当箱を取り返した。
あ、とひよのの口から小さな声が漏れる。
「・・・・・じゃあせめてピアノを・・・」
「いやだ」
「どうしてもですか?」
いささか勢いを失った声でうらめしげに弁当をながめながら、ひよのは尋ねた。
歩は、苦々しそうな顔で告げる。
「ああ、『 ど う し て も 』だ」
白い病室に、柔らかな旋律が響き渡る。
そっとそれに耳を傾けていたひよの――であった女性――は、閉じていたまぶたを上げると、昔を思い返して、ぽつり、ぽつりと語っていた。
再び曲の編曲作業に戻りながら、歩は適当に相づちを打つ。
ひさびさに会ったのだからこんな対応はないんじゃないのか、と清隆やまどかが見たら呆れそうだが、これはこれで二人らしくて、二人とも何の不満もなかった。
むしろ、別れた時あの日よりも、いままでのような。
「……昔はああ言っていたのに、どういう気持ちの変化ですか?」
「別に、大したことじゃないさ。アンタには昔は聞かせたくなかっただけだ」
「どういう意味ですか」
彼女は怪訝そうな顔つきで聞き返す。しかし歩は相変わらずしれっとした様子で、譜面に筆を走らせる。
「そのままの意味だよ。あれは、兄貴の音楽であって俺の音楽じゃない。
……俺のくだらないこだわりだよ」
一瞬目を丸くしてみせたが、そうですか、と彼女は微笑んだ。
しかし、その意味をよく考えて、はたと気付く。
「もしかして……それって……私には聞かせたくなかったってのは……?」
「……さあな。勝手に思い込んでろ」
つきはなすような言い方の割に、おだやかな顔。
彼女は、ひよのがそうであったように、にやりと意味ありげに微笑む。
時として、歩に「悪魔の笑みだ」と称された、あの笑顔。
「私……都合のいいようにとりますよ?」
「……それは「結崎ひよの」の設定された性格じゃないのか?」
ペンを置き、歩は彼女に目をやった。結局のところ、どこまでが演技だったのかはわからなかった。
否、わかりたくなかったのかもしれないが。
今なら聞けるような気がした。
自分の先はもう長くないかもしれないし、これが最後の会話の機会かもしれなかった。そんな歩の心中を知ってかしらずか、彼女はさらりと返す。
「いえ、あれは清隆氏の依頼を受けた虚構とはいえ、ほとんど素ですから」
「……あ、そう」
歩の口から、呆れたようなため息がこぼれでる。
しかし、彼女が……ひよのが今まで見たなかで一番幸福そうで、おだやかな笑みで、彼は笑った。
「好きなように思っててくれ。
……きっとそれが実際の答えに近いはずだから」
この先、誰よりもあなたの人生に幸があらんことを。
「見てわかりませんか?」
ひよのは可愛らしく首を傾げてみせる。その手には、歩の青い箸。
そして胸の前できちんと手をあわせていた。
「鳴海さんのお弁当をいただこうとしてるんですよ」
―昼下がりの間奏曲―
時は、二十分ほど前にさかのぼる。
歩は、昼休みになるとあくびを噛み殺しながら新聞部へとやってきた。
昨日遅くまでストックのための水餃子を作っていたので眠いのだ。でもこれでしばらくの弁当のおかずのアレンジには困らないだろう。
仮眠を取ろう、と思った歩が選んだのは、新聞部の部室。
いつのまにかこれが当たり前になってしまっていたから、始末が悪い。
前は屋上が静かで気に入っていたのだが、バカ娘が文字通り叩き起こしにくるのでまだ覚悟ができる部室で昼寝したり昼食べたりしている。
そんなわけで、今日は昼寝と決めた歩は、昼ご飯を食べる前に机に突っ伏して仮眠を取ることにしたのだった。
十数分後。
案の定やってきたひよのの扉の音で、歩はうっすらと意識がもどった。
しかしこれで起きるのは癪なので、起こされるまでは寝てよう、とまた浅い眠りへと戻る。
いつもは彼女はそんな自分を妨害するのがとても楽しそうに、それはもうにこにことして、
「なーるーみーさん、起きて下さい!部室は仮眠室じゃないんですよ!」と耳元で大声を出して起こすのだった。
が。
今日に限っては、いつもとは違った。
ひよのはなぜか歩を起こさず、しばし立ち尽くしたあと、そろりそろりと歩のカバンに近付いた。
そしてこともなげに一番奥にあったはずの弁当包みをひょいと取り出すと、椅子に座り、包みをほどきだす。
最初はぼんやりと、そしてだんだん意識を取り戻してからも狸寝入りして様子をうかがっていた歩だったが、ひよのがいただきます、と手をあわせたのですぐさま非難の声をあげたのである。
こうして冒頭の会話にもどる。
「珍しく寝かしてくれるのかと思ったらこれか。
アンタいい加減俺の弁当食べるのやめろよ」
「そう思うんだったらここでお弁当食べる前に眠るのやめたらいかがですか?
こぉぉんなおいしいお弁当を目の前に置いておいて食べちゃダメ、なんて卑怯ですずるいです最低ですっ!
私に食べて下さいと言わんばかりじゃないですか!!」
「置いてあるだけで食べるな!だいたい、アンタ今俺のカバン漁って取っただろう」
ひよのはやれやれ、と呆れたように大げさに肩をすくめて首を振る。
わざとらしい。
「やはり起きていたんですね。止めなかったからいいのかと思いましたよ」
「そういう問題じゃないだろ!」
「それに言わせていただくと漁ってませんし、物音たてずに取りましたし」
「気味が悪いだけな上にそういう問題でもない!」
やれやれ、とひよのは笑顔で肩をすくめる。肩をすくめたいのはこっちだというのに。
「そんな怒らなくってもいいじゃないですか~。私と鳴海さんの仲じゃないですか」
「他人が聞いたら大いに誤解しそうな発言を毎度毎度さらっと言うな!弁当返せ!」
勢いよく手を前に出して、歩は弁当の奪還を試みる。が、あと少しのところでひよのにひょいとかわされた。
歩が眉間にしわを寄せるのを見ているのかいないのか、むむむ、とひよのはうなる。それならば、と呟くと、彼女はすっと人差し指をつきたてた。
「しかたないですね。
それでは鳴海さんがピアノを聞かせてくださるなら手を引きましょう」
「何でそうなるんだよ」
「まぁそんなのどうだっていいじゃないですか。
聞かせてくださいよ~」
「全然弁当と関係ないじゃないか」
「でも、鳴海さんお腹すいたでしょう?」
ちょうどいいあんばいに、歩の腹の虫が可愛らしい音を立てた。すっと、歩の頬に朱が走る。
「ほらほら。ピアノを一曲弾けばオッケーですよ。
この際『ラ・カンパネラ』でかまいません。『革命』でも『カルメン』でもかまいませんよ」
「なんで腹が減ってる時にわざわざカロリーの消費が激しそうな曲を選ぶんだ!第一カルメンはオーケストラだろ」
「そのくらい鳴海さんなら即アレンジできるじゃないですか。
ほらほら、音楽室ならすぐそこです。聞かせてくださいよ~」
じりじりと、ひよのはお弁当箱を歩の眼前にぶらさげて迫る。
しかしその近づけた一瞬の隙をついて歩は弁当箱を取り返した。
あ、とひよのの口から小さな声が漏れる。
「・・・・・じゃあせめてピアノを・・・」
「いやだ」
「どうしてもですか?」
いささか勢いを失った声でうらめしげに弁当をながめながら、ひよのは尋ねた。
歩は、苦々しそうな顔で告げる。
「ああ、『 ど う し て も 』だ」
白い病室に、柔らかな旋律が響き渡る。
そっとそれに耳を傾けていたひよの――であった女性――は、閉じていたまぶたを上げると、昔を思い返して、ぽつり、ぽつりと語っていた。
再び曲の編曲作業に戻りながら、歩は適当に相づちを打つ。
ひさびさに会ったのだからこんな対応はないんじゃないのか、と清隆やまどかが見たら呆れそうだが、これはこれで二人らしくて、二人とも何の不満もなかった。
むしろ、別れた時あの日よりも、いままでのような。
「……昔はああ言っていたのに、どういう気持ちの変化ですか?」
「別に、大したことじゃないさ。アンタには昔は聞かせたくなかっただけだ」
「どういう意味ですか」
彼女は怪訝そうな顔つきで聞き返す。しかし歩は相変わらずしれっとした様子で、譜面に筆を走らせる。
「そのままの意味だよ。あれは、兄貴の音楽であって俺の音楽じゃない。
……俺のくだらないこだわりだよ」
一瞬目を丸くしてみせたが、そうですか、と彼女は微笑んだ。
しかし、その意味をよく考えて、はたと気付く。
「もしかして……それって……私には聞かせたくなかったってのは……?」
「……さあな。勝手に思い込んでろ」
つきはなすような言い方の割に、おだやかな顔。
彼女は、ひよのがそうであったように、にやりと意味ありげに微笑む。
時として、歩に「悪魔の笑みだ」と称された、あの笑顔。
「私……都合のいいようにとりますよ?」
「……それは「結崎ひよの」の設定された性格じゃないのか?」
ペンを置き、歩は彼女に目をやった。結局のところ、どこまでが演技だったのかはわからなかった。
否、わかりたくなかったのかもしれないが。
今なら聞けるような気がした。
自分の先はもう長くないかもしれないし、これが最後の会話の機会かもしれなかった。そんな歩の心中を知ってかしらずか、彼女はさらりと返す。
「いえ、あれは清隆氏の依頼を受けた虚構とはいえ、ほとんど素ですから」
「……あ、そう」
歩の口から、呆れたようなため息がこぼれでる。
しかし、彼女が……ひよのが今まで見たなかで一番幸福そうで、おだやかな笑みで、彼は笑った。
「好きなように思っててくれ。
……きっとそれが実際の答えに近いはずだから」
この先、誰よりもあなたの人生に幸があらんことを。