大切なもの
……私だって、マサラのトレーナーだもの。
―大切なもの―
決勝リーグを前に、会場は熱気に沸いていた。本選を誰よりも良い席で鑑賞しようと、観客たちが右へ左へと移動していて、騒然としていた。私は足早に人の波をくぐり抜けながら、そっと逸る胸を押さえた。
これほどの人に囲まれて、舞台の上に立って。同じ故郷の同年代の男の子と力を競い合う。何年夢見てきたのだろう。
そして出来ることなら。この会場に私の過去を知る人がいてくれたら――…
「おい。お前」
私は、ふと歩みを止めた。聞き覚えのある声だったけど、どこで聞いたのかはよく覚えていない。振り返ると、まずまっすぐにこちらを見据える碧の瞳が目に入った。ああ、あの人だ。レッドの親友で、図鑑所有者。そして…
「えーっと、グリーンでしたっけ。
シルフカンパニーのときは助かったわ。ありがとう」
私はいつものように対外的な笑顔を張り付けた。この人は油断してはいけない。シルフカンパニーの時は知らなかったけど、あの人の血縁だ。何かをかぎとられてはいけない。
せめて、この大会が終わるまでは。
「お前も本選のメンバーなのか?」
「そうよ。決勝で会ったらよろしく」
私はスカートの裾を少し持ち上げ、演技がかったような礼をしてみせた。レッドに勝つ自信はあった。でも、この男に関しては手ごわいと感じていた。何しろ、データが足りなすぎるのだ。しかも、色仕掛けも、女を武器に油断を誘っても通用しない冷静な性格も私と相性は悪そうだった。
グリーンは、何か言いたげに口を開いて、何も言わないまま、溜息をついた。何よ、態度悪いわね。
「覚えていないのか」
「何をよ」
「……お前、マサラにいただろう」
グリーンは、頭の先から足の先までじっくりと検分するように見つめると、私の腰元に目を留め、細めた。私は、ボールが見えないようにあくまで自然に手を組みかえた。やっぱり。この人は、カメちゃんを私が盗んだことを知っている。そして、決定的な証拠を掴もうとしているんだわ。
「何の話?あんたとレッドの故郷なら、私は行ったことなんて、いちっどもないわ」
こいつ相手にこの程度の言葉では意味がないことくらいわかっている。この男は、じっと私の反応を見て、本当かどうかを確かめているのだ。私は彼と眼だけは合わせないように、ロビーの大きな窓へと目線を泳がせた。
「私そろそろ行かないといけないのよね。次の試合のオジサマが待ってるのよ」
「マサラは、汚れなき白だ」
「……はあ?」
予想外の言葉に、私は瞬きを繰り返した。何が言いたいのだろう、この男は。だいたい会話になっていない。私は眉の皺を増やすばかりだ。
グリーンは構わず、やっと捉えたと言わんばかりに私の目を見据えた。まるで私の心を探るような鋭い光に、一瞬どきりとする。オーキド博士には悪いけど、こんなにいい男がまさか孫だなんて、気付かないわよ、普通。
「お前の中にもあったはずだ」
「何が」
「……わからないならそれでいい」
何よ、それ。わけがわからない。
私は何度も口の中で反芻しながら、去って行った男の後ろ姿をただ呆然と見守った。
会場から吹き抜ける生暖かい風が、長い亜麻色の髪を巻きあげて、私の視界を奪った。
マサラは汚れなき白。…そうね。あの町は本当に純粋で、汚れのない場所だった。
そんな場所へ私は帰ってきて、あの研究所にもぐりこんだ。本当は、盗む気なんてなかった。でも、マサラには私の知っている人なんていなかったし、訪ねた研究室は誰もいなかった。悔しかった。同じ年の男の子が、博士に認められ、ポケモンと図鑑を与えられたことというのに。運命は、私に博士に会う資格すら与えてくれないのか。衝動的に行ったことといっても、過言ではないかもしれない。
同時に、衝動で犯罪に手を染めるほど、私の中で仮面の存在は大きくなっていたのだと、嫌でも痛感した。
私は、あの場所で罪を一つ犯したのだ。一生、マサラの誇りである博士から逃げ続ける運命を、自ら選んだ。
だからこそ、
「私の帰る場所はもうない、ってことかしらね…」
自分で呟いた言葉に、私は最後の楔を打ちつけられたような気がした。もう私は、白くはなれないのだ。
私に残された時間は少ない。だから、せめて。
最後は輝いて、私の居場所を残すの。
だからそれまでは、お願いだから黙っていて……
『繰り返します。各ブロック第一位通過者は決勝会場へ移動してください』
アナウンスの声が響きわたる。ああもう、時間はないのだ。私は、震える手で顔をはたいた。
私は、負けられない。マサラの人間として。一度道を間違えてしまった者として。
マサラの人間として誇れるものなど何もない。だから、私はここでつくらなきゃいけない。
「頑張るからね、シルバー」
私は、ジョウトに残してきた義弟の名前を呟いた。
大丈夫。私は、負けたりなんかしない。
そして私は、リーグへの一歩を踏みしめた。