眠りによせて
珍しく何事もない午後の昼下がり。
普段なら幾人かが忙しなく行き来する廊下も、今は歩む人影も彼女以外にはない。
す、と背を伸ばし、手にしたファイルに視線を落としつつ、彼女はいつも通りの時間に、上司の執務室の扉を叩いた。
ノックの数は決まって3回。
いつもと同じ調子で。
けれど、普段通りであれば即座に返るはずの部屋の主の答えはなく。
「・・・・・・。」
再度ノックをするために手を上げるまでに、いくつかの想像が過ぎった。
1.午前中に期日の来た書類のつじつま合わせに集中してる。
2.思索にふけって聞こえていない。
3.もぬけの殻。
一番確率の高そうな3番なら今日のお茶うけは没収の上、もれなく書類追加。
――――だけでは済まない事はこの司令部に所属する者なら誰でも知っている事なのだが、ことあの上司だけは性懲りもなく何回も同じ事を繰り返している。
最近、実は構われたいだけじゃねぇの、とかの噂がたっているとかいないとか。
もとい。
しかし周りには判らない事ではあったが、今回は少しばかり事情が違った。
東方司令部最強の中尉には、もしも上官が逃亡後であったとしても、今日は咎めようという気はなかった。
それよりもここ数日の根の詰め具合からすると、いっそ逃亡でも計って寝ていてくれた方がありがたい。見ているこちらが倒れそう、とは司令室での誰の言だったか。
あの人は色々とそつがない癖に、時折手加減を忘れる。
小器用な事に自分自身に対しては、特に。
「――――大佐」
一声呼び掛けてノックを3度。
…だが、まだ答えはなく。
彼女は一つ息を付いて、ゆっくりとノブに手をかけた。
「失礼します」
窓から差し込む明るすぎる窓からの日差しに目を細めた。
それはほんの僅かな時間に違いはなかったが、思いの外強い光に目を灼かれ、一瞬視界を白の世界に失う。
2度3度瞬きを繰り返して目を細めてこらせば、ふ、と世界が揺れた。
目を射るきつい陽光。乾ききった風が運ぶのは――――。
だがそんな気がしただけで、足は変わらず磨かれた硬い床を踏みしめていて、手にした紙の感触と重さは慣れたものだ。
一瞬過去へ掬われかけた意識を、一定の数を刻む事で引き戻す。
ここは普段と同じあの人の執務室で
私はいつものように、なかなか進まない書類の様子を、見に
「・・・大佐?」
静かな問い掛けに答えは返らない。
だが、彼はそこにいた。
思索にふける時のように頬杖を付いて、右手にはペンを握りしめたまま、目を閉じている。
珍しい。
机の上の書類は半分くらいの所で止まっていた。
書面を目でなぞっているうちに集中力が切れたのだろう。まだ握ったままのペン先のブルーブラックのインクは乾ききってしまっている。
だが幸いな事にインクを零した挙げ句書類の作り直し、などという被害はないようだった。
その指先から視線で辿る。ピクリとも動かない腕から肩を辿り、ゆっくりと視線を上げれば、明るい陽の光の下に照らされ、顔色の悪さは誤魔化しようのない程にまでなっているのがはっきりと判る。
普段の彼であれば、例えうたた寝していたとしてもノックの時点で目を覚ましてしれっと起きてた風を装うのが常で、物音どころかかけられた声にも反応しないなんて。
そっと息を詰める。
寝息は聞こえない。
眠っている所は死体みたいで心臓に悪い、と中央の彼の友人がよくぼやいていたが、久し振りに見たような気がする。
机を隔てた、ほんの数歩で埋められるこの僅かな距離。
その間に落ちる沈黙も重いものではないけれど。
彼女はゆっくりと目を伏せた。
これ以上近寄れば、彼は目を覚ますだろうか。
それとも、これ以上の距離を許されるのだろうか。
人の気配が近寄ってなお、深く眠っている事もまた希な事だと、自分は知っているから。
決して自分の深くまで見せようとはしない彼に気を許されているのだと、思い知るのはこんな時だ。
・・・本当に、どうしてこの人はこうなのか。
自分の心を寄せた者には、どれだけ突き放した物言いをしていても、結局ほんの些細な事でも気を配るのに。彼の中で、彼自身の優先順位は本当は酷く低い。
そんな天の邪鬼な質である事はよく知っている。
自分で決めた事は譲らない事も。
…だが、それでも。それでももう少し手加減を覚えてはくれないだろうか。
それとも、もっとはっきり伝えなければならないのか。
貴方を無くせば意味はないのだ、と。
けれど、この机を隔てたこの僅かな距離を、互いに踏み込もうとはしないままここまで来た。
そしてこの距離はこのまま、きっと続いていく。
いつかの、最後の時まで変わらずに。
そして遠い昔からの決まり事を、またいつもの通り繰り返す。
人の眠りを、こんなにも守りたいと、思った事はないのに。
今日もまた彼女は目覚めを呼ぶ。
揺らぐことなく彼を呼ぶ。