人知れず初恋
「池袋〜池袋、お出口は右側です」
車掌の声と共に電車のドアが開く。開いた途端、我先にと人々が出てくる。電車の中にはこんなに人がいたのかと思うと同時に、電車はこんな大勢の人間を運ぶことが出来るのかとも思う。今まで、電車は二両編成かつ二時間に一本というのが普通だったので山手線はカルチャーショックに近いものがあった。
ぼやっとしていると、チッ、と後ろに並んでいた男に舌打ちされる。慌てて車両に乗り込みながら、本当に東京の人間は恐ろしいったい…と呟く。そんな、少し遅くなっただけで舌打ちせんでも良いのに――なんて東京の人は怖いから、言えるはずない。
先ほど舌打ちしてきた男は、山手線特有の少しふかふかした座席にどっかり座っている。座りたかったのだろうか、だから早くしろと急かしてきたのだろう。
(東京の人間とは分かり合える気がせん)
はぁ、とドアに寄りかかりながらため息を吐いた男――沖田総悟は春から東京の大学に通うことになっている。勿論大学は四月からなのだが、この時期からオリエンテーションやら何やらで総悟は早くも上京していた。
通うことになっているのは、それなりに名の知れた大学でアパートを借りた町からは副都心線と山手線を乗り継がなければいけない。本当は都内に住みたかったのだが、何分物価が高すぎて手が届かなかったのである。
昼間だと言うのに車内は混雑している。営業中のサラリーマン、部活へ行く高校生、買い物へ行く主婦、行き交う人々は大して福岡と変わらない気がするのだが。
時間帯が問題だ、昼間の福岡はどんたくがない限りこんなに混まない。
きっと、中には総悟と同じように大学のオリエンテーションに行く人もいるだろう。
「次は〜…」
最寄り駅に着いたのは、電車に乗ってから暫くしてからで。これくらいなら歩いて行けるのではと思うが、迷子になるのがオチなので思うだけに留めておく。
駅でアトムのテーマが流れるのは、この辺りでは此処と埼玉の何処かの駅だけだという。尤も総悟はあまり興味が無いので、もうひとつの駅を調べる気はない。
やたら軽快な音楽に押されながら、総悟は人の波に乗って階段を降りる。池袋や新宿に比べたら小さな駅だが、それでも人は多い。
踏み外さないように気をつけなければ、と思った矢先だった。
「あ!」
恐らく背後にいた人間に、靴のかかとの部分を踏まれてしまったのだろう。無論わざとではない。しかし、それによって総悟は身体のバランスを崩した。
ふわり、と身体が浮いて空を飛ぶような感覚に襲われる。だが、それも一瞬のことで直後にガン!と嫌な音と共に右足に激痛が走った。
それだけならまだ良かったのだが、何がどうなればそうなるのか総悟の身体はごろごろと階段を転がっていく。分かっているのに止められない。一瞬の出来事のはずなのに、まるでスローモーションがかかっているかのようだった。
「……ったあ…」
ざわざわと行き交う人々が驚いたような表情を浮かべているのが見える。買い物に来たのであろう、中年の主婦が大丈夫?と声をかけてきた。
「え、はい…大丈夫です……」
本当は全く大丈夫ではないし(身体中が痛い)、恥ずかしすぎて、まさに穴があったら入りたい状況だったのだが。
肝心な、総悟の足を踏んだ人物は分からない。そのうえ、その女性の声がやたら大きかったこともありいつの間にか人だかりが出来ていた。
「どうしました?」
騒ぎを聞きつけて――もしくは誰かが報告したのだろう、駅員がやってきた。紺色の帽子と制服が、男の黒髪にやたら似合っている。
東京の人間だ、と何故か一目で分かった。帽子で良く分からないが、洗練された顔立ちをしていることに間違いはない。
「大丈夫ですか?」
駅員の男はしゃがんで、総悟に手を差しのべる。此処にいつまでもいて貰っては困るのだろう。
「大丈夫、です」
男が人払いをしたのか、周囲の人間はいつの間にかいなくなっていた。は、と気づく。オリエンテーションまで時間がない。
「手当てをした方が良いですね、医務室まで案内しますよ」
男の胸にはネームプレートがあり、土方と書いてある。土方の気持ちは有難いのだが、此方も急いでいるのだ。
「い、いや…大丈夫ですから……!」
慌てて手を振り払うが、その衝撃でふらついてしまう。
はあ、とあからさまにため息を吐かれたかと思うとグイッと腕を引っ張られた。
「うわ!なんばしよっとね!」
「怪我を手当てすると言っているんだ、さっさと来て下さい」
駅員とは思えないくらい目付きが悪い。そんな瞳に睨まれ、怯んだ途端身体が浮かび上がる。背負われたことに気付いたのはそれから数秒後で。
「わ、わ、わ」
「ほら、大人しくしていろ」
完全なる子ども扱いだ。もう俺は18なのに!と叫びたくなるが、それこそまさに子どもであるということは分かっていた。
むすっと唇を尖らせてみたものの、効果はなかったようで総悟はそのまま土方に背負われたまま医務室へ運ばれた。
手際よく包帯と湿布を処置され、足の痛みも少し引いた気がする。
「これでよし、と」
「土方、さん有り難うございました」
総悟がそう言うと、土方は驚いたように目を丸くした。普段は目付きが悪いのに、何だか愛嬌もある気がするのだからおかしいものである。
「どういたしまして。悪いんだけどこれに名前書いて貰って良いですかね?」
手渡されたのはいわゆるカルテのようなもので。紙を眺めていたら、戸惑っているように見えたのか気になるなら名前だけでもいいからと言われた。
「階段から落ちたときすぐに起き上がったから大丈夫かとは思いますけど、頭を打っているかも知れないのできちんと病院へ行ってくださいね」
「分かってるたい」
書いている間にも言われて、まるで小言のようだと思う。この男は実家の姉に似ている。
そう思ったからだろう、先ほどから思わず方言が出てしまっていた。土方も気になったのか、沖田さん、と総悟の名を呼ぶ。
「失礼ですがどちらから?」
「福岡、です」
正確に言えば福岡、から大分離れた田舎町なのだがあまり差し支えはないだろう。
「へえ、福岡。ひよこの」
「は、い」
「……どうして方言を隠すんですか?」
土方はそう言う。
「恥ずかしいから……です」
「そういうもんですか?俺なんてずっと東京だから、そういうの羨ましいですけどね」
はい、と紙を手渡すと土方は何やら書いている。さらさらとペンを走らせている姿さえ洗練されているように見えて、やはり東京の人間は違うのだと思った。
「……」
「何?見とれた?」
「は……?そ、そんなわけなかけんね!」
がたん、と音を立てて総悟は立ち上がる。頬が熱くなっているのは気のせいではないだろう。
「お世話になりましたっ!では!」
足元に置いていた鞄を掴み、総悟は医務室を出る。あ、と土方が声を上げた。
「俺、この駅に配属されたんで。毎日会うかも知れませんね」
「……すぐに忘れるけん」
忘れないですよ、と笑う表情はあまりに綺麗で。けれど、心のどこかで嫌な予感もした。
「東京の人にも、良い人はいるんですね」
そう言い残して、総悟は大学へ向かう。残されたのはぽかんと口を開けたままの駅員がひとり。
「良い人、ね……」