Proof of gratitude
突然頭上から降ってきたご指名に、顔を俯かせたまま全身を強張らせる。呼ばれても、今は応えられない。よりにもよって、今当てなくたって良いだろうと俺は善人の塊みたいな細井ちゃんを呪った。「花村っち?」と二度呼ばれて追い討ちを掛けられる。逃げ場なんてない。乱暴に手の甲で両目を拭い、返事より先に立ち上がった。慌てていたもんだから、椅子を立つ音は乱暴でガタンと教室中に響く。ああ、もう。声まで湿ってる。ようやく口にした「はい」はひどく弱くて、情けなくて、それこそ自分の有様に涙が出そうだった。
「……外山のあんにて、これをしるす」
「ほい、お疲れさん。あん、じゃなくていおり、なんやけどな」
どうにか読み終えると読み間違いを指摘されて、濡れた頬が熱く火照った。気力を振り絞って朗読したのに散々な結果だ。オマケに「それと目ぇどうしたん? 目も周りも真っ赤になっとるから、流しで洗っといでや」とのお節介まで食らってしまって皆の視線は俺に釘付け。ガキみたいな泣きべそを隠すようにして頷き、授業中出て行くなんてどんなイジメだよ羞恥プレイだよ。何で俺、こんなに涙脆くなってんだよ。ぴしゃん、と閉めた扉の向こうで堪え切れない衝動に歯噛みする。……何で、なんで。
「もう、いやだ……」
あの日以来、俺の涙腺は壊れたままだ。先輩の悪口を言った奴らに怒鳴って、先輩と撮ったプリクラを見付けて、先輩への想いを相棒に吐露して泣き喚いてから、俺の目はふとした拍子に涙を零す。先輩の夢を見た朝、起きた時の涙目をクマに心配されたり、誰もいないジュネスのバックヤードで落ち込んだり、儚く消えゆく泡沫にあの人を重ねたりしてぼろぼろ泣いてしまう。自分ではコントロール出来ない感情にほとほと疲れ切っていた。俺、どんだけ好きだったんだろ。ウザがられてたのにバカじゃねえのって頭では自分を笑えるのに、顔に笑みを乗せられない。接客業失格だ。……って、思うでしょ、先輩。そう言って俺のこと叱ってよ。
「ばっかでー、俺」
そんな余計な妄想で自分のこと追い込んでやんの。ホントバカ。
起き抜けと古典の授業中と、昼休みとで本日三回目。充血した目を漱いで教室に戻ると、何やら騒がしかった。入口近くで女子が中を恐る恐る覗き込んでいて、通りすがりらしい男子も足を止めている。そうした人垣の所為で俺は中に入れない。何かあったのかと耳を欹てれば、耳を傾けなくても廊下まで聞こえる程度のボリュームで「どうしてそんな風に笑えるんだ」と、幾らか冷たい感じの声がした。――聞き間違える筈がない、那須の声である。続けて「だって、なあ……」と誰かの声が聞こえる。滲んで見える困惑の色。
だが戸惑う相手にも相棒は容赦しない。「だっても何も、人の泣き顔を見るのがそんなに楽しいのか?」と詰め寄る那須に俺はその場で立ち尽くした。たった一言で状況が手に取るように分かったからだ。
「陽介は今、超えようとしてる」
多分、俺がまた涙ぐんでしまってトイレへ駆けて行くのを見て、笑う奴がいたんだろう。最近何なの花村、とか。女に振られでもしたか、とか。因みにこれは今日までに俺の耳が拾った、周りの呟き。実際もっと色々囁かれてると思う。それがたまたま那須の耳に入ったのだ。そして相棒は憤っている。珍しく、声を荒げている。以前、先輩の悪口を言った奴らを止めてくれた時と同じように。
姿はやっぱり壁や人に阻まれて見えなかったけれど、俺の脳裏に浮かんだ那須は毅然と立ち向かっていた。鋭い眼光で言い放つ。
「気丈なアイツが泣く程のことだ。その理由も知らずに、アイツを女々しいだとか何だとか言って笑う奴は許さない」
お前、何マジになってんの? お前、何で花村のことでキレんの?
ちょっと気持ち悪いっつっただけじゃん、事実なんだから仕方ないじゃん。お前だってそう思ってんじゃねーのいや思ってないですよね口数少なくて感情表に出難いお前がこんだけ言うって相当真剣に考えてくれてる証拠ですよねそうだって信じて良いですよね。
混乱した頭の中は整理していくにつれて一面白に染まる。俺自身、自分のことを嘲笑っていたから相手の心理の方が良く分かって、まさかそんな反応があるとは思わなくて、驚いた。苦しくて、胸を押さえた。ぎゅっと鷲掴みにしたシャツの下で心臓が激しく脈打っている。目頭が燃えるように熱を帯びてきて、俺は駆け足でユーターンする羽目になった。洗面所の蛇口を勢い良く捻って、頭から冷水を被る。そうでもしないとこの昂ぶりは治まりそうになかったから。
「大丈夫か?」
那須が俺の様子を見に来たのは五分位後のことで、中々戻らない俺を心配したみたいだったけれど、それ、お前の所為だから。今も薄っすら目尻にくっ付いてる……そう、今お前が指で掬った粒はお前が引き出した嬉し涙だから、心配すんなよ。それと……「サンキュ」。
作品名:Proof of gratitude 作家名:桝宮サナコ