雨桜(あめざくら)
「自分が悪いなんて思ってないですよね」
「何が?」
満開だった桜は一度の雨であっさり散ってしまった。コンクリートや植え込みの土の上にはつい一日前まで咲き誇っていた名残が残っている。ピンクの絨毯と呼ぶには灰色や茶色に紛れすぎていて、とても乙なものとは言えなかった。
『花見に行くから』
すっかり花びらを失った桜を眺める羽目になったのは、自分から日を指定しておいて、すっぽかした相手が原因だった。予定していた日だったら七、八分だったかもしれないが陽気の中で桜を望むこともできただろう。
「帝人君さあ、何で不機嫌なの?」
そしてこの口ぶりだ。
百歩譲って仕事だというなら許すこともできたと思う。けれどその理由が、忘れてた、とあってはもう怒りを通り越して呆れるしかなかった。
元々、この人は僕との約束というものを軽視しているんだと思う。
歳も離れた、しかも男相手なんて所詮遊びにしか過ぎないのだろう。付き合い始めたのだってきっと気まぐれで、それでも僕はこの人が選んでくれたことが嬉しくて素直に言葉に飛びついた。
「自分の胸に手を当ててみてください」
「ふうん? …特に答えは見つからないけど、これが答えでいいのかな」
「…構いません」
その結果がこの有様だ。
今日はいきなり朝電話で叩き起こされて、全く同じ誘い文句を投げられた。たまたま講義が休講で一日予定が空いていたから良かったものの、そうでなければ横暴にもほどがある。ついでに言えば、こういったことは今回が始めてではない。先に予定があると伝えているのに突然食事に誘ったり、深夜にアパートに押しかけてきたり(しかも一方的に自分の話をして帰っていく)、友達といるところに割り込んできたり。
時々この人はただ僕の困る顔が見たいだけなんじゃないかと心底思う。悪質な人間観察を趣味にしているくらいだから、強(あなが)ち外れてもいないはずだ。
それなのに、こちらから関係を絶てるほど僕は強くなくて、予定を都合してくれと言われれば浮かれて二つ返事をする。
「臨也さん、もう」
会わないようにしましょう。
この一言がどうしても言い出せない。
この散って価値のなくなった桜みたいに見捨てられる前に。綺麗に咲いたままで記憶に残れた方がよっぽどいい。
前を歩く彼の姿が滲みそうで、僕は足を止めた。早く引っ込め、渇いてしまえと念じながら、俯く。いっそ溜まったものを落としてしまえば楽な気がしたが、そう簡単には自分自身がさせない。
「帝人君」
不意に呼びかけられて、顔を上げる。
少し離れて振り返る、その無駄に整った顔に僕は図らず見惚れていた。返事すらうまく出て来ない。
もう本当に止めて欲しい。
掻き回さないで欲しい。
それなのに、この人はそれすら許してくれない。
「何ぼーっと突っ立っているんだ。置いていくよ」
「何処行くんですか」
「言っただろ。花見だよ」
「だって」
ここにある桜の花はもう散ってしまっているじゃないか。あなたが約束をすっぽかしたせいで。
言えない僕は瞳で何とか訴える。彼はそこでようやく察したのか、溜め息をひとつ零した。
「誰が東京の桜だなんて言った」
「はい?」
「取って置きの場所があるんだ」
手にした細長い紙をひらひらとちらつかせている。新幹線のチケットのようだった。
「観るならやっぱり満開じゃないとねえ」
「だからって、こっちの都合も」
「情報屋さん、甘く見るなよ?」
くつくつ愉しそうに肩を揺らしている。
見ればもう片手には僕が大学の予定表だった。見覚えのある手製のそれは僕の筆跡で、コピーだとわかった。一体いつの間にそんなことをしていたんだ。
けれど、それにしたって。
「一歩間違えたらストーカー被害で訴えられますよ?」
「例えばそれが帝人君だとして勝算はあるの? 止めておいた方がいい」
「いつか…訴えられて後悔しないでくださいよ」
「あはは、楽しみにしているよ」
彼が僕を惹きつけて不敵に笑う。
もう本当に困るから止めてほしい。
この人はどうやってもまだ僕を離そうとはしない。
悔しいけど僕からも離れられない。
とりあえず、自分の足取りが軽くなったのは春の陽気につられたからだということにしておく。