『疑問』
地獄の底までお供しますよ。
あの時俺自身、意識がはっきりとはしていなかったが。多分。
あいつはそう言っていた。当たり前のように。
ブラインド越しに高層ビル群や、少し見上げればくすんだ空が見えるマンションの一室。
この部屋はベッドが一つ置いてあるだけだ。ひびも壁に入った殺風景な部屋。
織田には寝室だけでなく、プライベートに介入する存在……妻も近しい肉親もいない。織田は常々思う。6月の雨より厄介にしか見えぬ男女間の主従関係は要らないと。同性愛者ではないが、賃金で相応の実力者を手元に置き抱える主従関係が、自分にとっては明快且つ合理的で最も良い。そう思っている。それに一人の女……人間よりも己の心を奪い、熱意をかける物が織田には存在している。―…マンガマーケット。
そこには彼の頭脳と根気、能力と金を注ぎ込んだ、いわば織田の帝国がある。それは正しく「身動き一つしない、微動だにしない」―…織田はこの言葉が好きだった。
そんな織田を吐き捨てるように、「同人ゴロ」と呟く者達もいる。例えば少ない部費で健気にやりくりする学生漫画の連中。商業主義、とも陰口を言い合う。数多のサークルはその存在に溜め息をつく。どうし様もないのだけれど、と諦めながら。勇気ある少数の大馬鹿者達は吼え、戦いを挑もうとする。
だが彼らは大抵、真の敵が織田であることに気付かない。分からない。下から見上げるには彼の作り上げた帝国は、トップが誰か分からぬ程巨大化していたから。
そうして闇雲に……いわば農具で馬上の侍を狙う愚か者達を、蚊を殺すように織田は潰して来た。その数は数えたことなどない。反抗の火種自体を断たれてしまうので、反織田を唱える者は群れ集結することすらできない。だから数は増えることはない。
もっとも群れるより単独でこの私に向かうだろうクソッタレはいるのだが……と織田は微笑する。そしてその男を逃がしてしまったのは惜しい過去の損失だったが。
「ダイヤはまた探せば良い」
一人呟く。常時外周の執筆人も自分の力にはおののく。それに金と力、己の頭脳があればいくらでも「引き抜く」ことはできる。
だが今は8月の夏季マンガケットを当面の課題にするべきだ。その道程に必要な人間は物描きのダイヤモンド、ではなく……
「失礼します」
軽いノックの後、男が入室する。
簡潔な今日一日のスケジュール、来客の確認を告げる彼は、考えたことすらなかったが、ふと何歳位だったかと思う。
男というよりは、体つきは少年だろう。長い前髪で隠れがちな顔は少女めいても見える。
そんなまだ、学校に行くガキのような子供が先日確かに言った。地獄の底まで自分の供をする、と。
ママの言いつけを守る子供と同じなのだろうか。
どうであれ構わない。ただ今の時期はこの男のように寸分違うこと無く織田の意を汲み、執務を遂行する者こそ必要だった。
だからダイヤを引き抜くのは少し先で良い。
そして織田はぞっとする笑みを浮かべた。いずれそれが必要になった時は、お前の可愛がるダイヤの原石をお前からさらってやろう、明智、と。
お前と同じ教育を施し、その少年もコマにしてやろう、私の帝国の。愚かにも私を傷付けようとする明智本人の大切な手駒がかつての自分と同じ道を辿るのはどういう気分になるのか……。
クク、と笑う織田を少年は訝しげに見る。
「織田さん?」
「どうした」
どうやら声に出し笑っていたらしい。織田はそれに気付かなかった。
「いや。……気にするな」
彼はそれ以上を問わない。主がそれ以上を不要としたから。
そのさじ加減、続く報告の完璧さ。仮にこの子供に10日間、不在のこの家を任せても思惑どおりに動かしてくれるだろうと織田は思い、すぐに苦笑した。
……それでは妻のようだ。こんな子供が。
唯一寝室に入り、今報告を続けている彼が。
今だけではないだろう。手元を去っていったダイヤ、力づくで奪うダイヤより、何年も前から織田の傍にいた……常に必要だった歳も分からぬ子供が。
そして彼は言う「地獄の底まで焉様の供をする」と。
それは何だろう。どこから来た思いなのか。
織田の常とする賃金による契約でも、己の帝国の手駒と割り切る以上の何かがある。……いや、あったと。俺がそう理解したいのだ、非合理で不明確な言葉を自分が受け入れていた事に織田は気付いた。
この私だけの世界がまだ小さかった時。
明智というダイヤは去り、柴田も丹羽も佐久間も前田も不在の折。俺は夜通し描き続け、俺を見下した連中を呪い続けた。しかし描くだけでは階段は昇れぬ。溜まる身辺の処理、あれ程言い争った準備会の連中達との折り合い、折衝。全てに嫌気が差すと同時に、一度転げ落ちた穴の深さに絶望すら感じていたその時に―…彼はいた。まだ今以上に幼く、大して役には立たなかったが良く動く子供だった。
当時自分の日々のメシにすら苦労し、給料も先延ばしになって。あれは献身だったのか。
織田はそう思う。だが情を通さぬ織田の性質を最も良く理解してるだろうこの男がなぜ、情を持って仕え従うのか。そしてそれを認めている織田。
地獄の底など織田にはない。彼が見据えるのは近い未来確実に手に入るだろうマンガマーケットでの頂点であって、踏み潰される運命の底辺など己が見るに値しない。そう思う。
だが限りなく頂上……マンガケットのカイゼルに近い位置にいる今の織田の、一番側には彼がいる。もう変わらぬ間。そして己の不始末で、この世界に誰かが仕掛けた織田の首を狙うトラップに掛かり、穴に落ちた時にも彼が始めに織田の安否を気遣い、無事を思い願うだろう。
ほんの子供が混乱した己の気を沈め、慰めに言った言葉が織田を納得させる事実になっている。―…織田本人がそうであってくれと望んでいる。
何故望むのだろう。
報告を終えた頃合を見計らい、織田は声を掛けた。
毎日呼ぶ、何年も側に居続ける少年の苗字。振り返る顔はまだ幼く。
こいつは俺を除いた自分の未来を考えた事があるのだろうか、と思う。それ程嘘のないまっさらな言葉と視線。その眼差しを確認し、安堵していることに気付き織田は愕然とした。
簡単な用件を伝え、下がらせる。
静かにドアが閉まる。再び何もない寝室で、室内着のまま一人。
立ち尽くしたまま織田は呟く。
お前は何なのだろう、森、と。