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きりきず

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それは丁度ワトソンがハムとスクランブルエッグの入ったサンドイッチとコーヒーで昼食を取って、のんびりとくつろいでいる真昼の事だった。

「いっ、~~~~~~……」

ホームズの部屋から珍しく呻き声が聞こえたのだ。
何があったのだろうと、気になったワトソンは座っているソファーから立ちあがり
声のした部屋の戸口を開けてみる。
するとそこには体を丸くしている見慣れた探偵の姿があった。
動作をよく見てみると何処か擦っている風にも見える。
顔を覗くと余程、痛むのか苦しんでいるのか顰め面をしている。

「どうしたんだ、ホームズ。どこか打ったり、切ったりしたのか?」
「あぁ、ワトソン君。いや、たいした怪我じゃないんだが実験の最中に少し指を切ってしまって」

ホームズの手を持ってワトソンは指先に目を通す。
そこには確かに左の人差し指に一見すると見えないが、薄い切り目ができていた。
微かにだが流血もしている。

「痛むか?」
「っ…そうだな、傷口の辺りがじんじんと痛むよ」

再び渋面をして痛みを訴えるホームズ。

「今、手当てをする。一緒に来い」

ワトソンはホームズを連れて先程、軽食を取っていた居間へと場所を移した。







引き出しにしまっていた薬箱を取り出し、包帯と傷薬を用意した。
ホームズの左手の外傷した部分に薬を塗ろうとする。
が、ホームズがいきなりワトソンの手首を掴み動きを止めた。
唐突な行動に驚き、せっかく応急手当をしてやっているのにと思い、表情がむっとなる。

「…おい、何をしているんだ。薬が塗れないじゃないか」
「いいや、この怪我は塗り薬では治らないよ」

「は?」と返しながら理解し難い言葉に首を傾げるワトソン。

「実は左手の人差し指を擦っていた右の手なんだが特殊な粉薬が付いていたんだ。
ただ、それがまた変わった性質でね」

ワトソンの手首を強く握っていたホームズの手がぱっ、と離れる。
解放された後の手首には少量の粉が付いていた。
「どんな?」とワトソンが問う。

「効かないんだよ。薬が」

ワトソンは一瞬、自分の耳を疑った。当り前だ。
そんな成分のある粉薬なんて聞いた事がないのだから。
驚いているワトソンを無視してホームズは話を続ける。

「君が僕の部屋に来るまで実験用の粉を使っていたんだよ。で、色々試している内に気が付いたんだが
どうやらその粉には同じ薬品と反発する効果を持っているらしいんだ。
そして、それが僕の切り傷の中に入った」

粉薬が付着している方の手をホームズが上げる。

「つまり君が今、僕の人差し指の傷口に薬を塗っても手当てしていないのと同じになる、という訳だ」
「…じゃあ、何なら効くっていうんだ」
「簡単さ。唾だよ」

開いた口が塞がらないとはこの事を言うのだろうか。ワトソンは眉間に皺を寄せて
暫く、ホームズの顔をまじまじと見つめた。
確かに昔、『ちょっとやそっとの怪我なんて唾さえ付けていれば治る』なんて聞いた事はあるが
それが薬より効くという話は初めてだ。不思議に思いつつ再び
ホームズの何所となく怪しい説明に耳を傾ける。

「傷口の治療を妨げる粉薬の唯一、弱点が唾液だ。唾液に含まれているアミラーゼが
実験用の粉に入っている成分を中和して本来の傷薬と同じ効果に変えるんだ」

だったら話は早い。
ワトソンの顔が先程の唖然としていたものから冷静さを取り戻す。

「なら、唾を付ければ済む話だな」

ところが、ホームズはワトソンの提案を否定するかの様に首を左右に振った。

「いや、そのまま付けるより舌を使った方がいい。舌の方が唾液を含んでいる量が多い」
「じゃあ、舌を使えばいい。何だ、どちらにせよ自分でできる治療法じゃないか。
もっと早くに言っていてくれれば……」

ホームズの視線が一気にワトソンへと集まる。途端に不穏な空気が流れるのを感じた。まさか…。


「私がしろと?」


すると当り前の様に「君以外、誰がやるんだ?」と返された。嫌な予感が的中してしまったのだ。

「断る。舌使って切り傷を舐めるぐらい、ひとりで出来るだろう」

さっきまで出していた塗り薬と用意していた包帯を
救急箱にしまいながらワトソンが少し冷たく言い放つ。
しかし、変に諦めの悪いホームズは負けじと反論してきた。

「君は医者だろ?医者は患者を治すのが仕事なんじゃないのか?
況してや、手当てを途中で放棄するだなんてもっての外だ!」

…駄目だ、今の状態のホームズには何を言っても流されるだけだ。
そう判断したワトソンは仕方なく諦め、ホームズの軽傷を負った方の手を自分の口元に寄せた。
毎度の事ながら我儘な同居人の態度に自然と溜息が洩れる。

「こんな応急処置なんか今回っきりだからな。二度とするもんか」

ワトソンはホームズの人差し指に刻まれた切り傷をキャンデーの様に扱い、舐めまわし始めた。
粉薬は想像していたものより甘く、砂糖菓子を連想させる味が口内へと広がっていく。
傷口から出ている血の味が入り混じり更に舌を狂わせる。
舐めている内にすっかり粉薬の甘さの虜になってしまったワトソンは
粉がなくなった後もホームズの指をしゃぶり続ける。
その様子に気付いたのかホームズが応えるかの様に指を奥へ、更に奥へと押し込む。
だが、喉元の所まで入れられて流石に気持ち悪くなったワトソンは
ホームズの手首に手を掛けて止めようとする。
それをホームズ本人も察したのか、タイミングの良い所で長く、角張った指を抜いた。
口から出たのは嘔吐きではなく咳になっていた。

「んっ、…っ、げほっげほっ……」

咳が治まった後、顔を見上げてみる。
ホームズの、目を丸くして驚いた表情が視界に映った。
口端が吊りあがって何処か笑っている感じにも見える。

「いやー…意外だな。君は疑り深いと思っていたんだが純粋に何かをすんなりと信じる
一面も持ち合わせていたとは…」

その時、ワトソンはすぐにホームズの言葉を理解できなかった。
何を言っているのかは分かるのだが意味が頭に入ってこないのだ。
それから少しの沈黙が流れ、やっと言っている事を理解したワトソン。
分かった直後、その感情は徐々に怒りへと変わっていった。

「もしかして私を騙していたのか?」

今にも爆発しそうな憤怒を堪えて、静かに問いただす。

「騙しただなんて酷い言い方だなあ。君がどんな反応をするのか試してみただけだよ」

笑い混じりに言うホームズを見て苛立ちが更に募る。加えてもう一つ、疑わしく思った事も聞き出す。

「…薬は」
「あぁ、あれは半分本当で半分嘘だ。実験用に使う薬なのは確かなんだけど
効果に関しては全く関係ないんだ」


ぷつん。


その瞬間、ワトソンの頭の中で堪忍袋の緒が切れる音がした。
一度、溢れてしまった彼の怒りは、特に原因がホームズとなると暫くの間は誰も抑えつけられなくなるのだ。

「…じゃあ、薬品が効かないのも嘘か」
「勿論。第一、そんな薬自体聞いた事がないよ。粉は小麦粉に甘味料を加えたんだ。だから舐めている時、甘く感じた筈だ。何、大丈夫だ。だからと言って体に支障をきたすものじゃない……ワトソン?体が震えているみたいだが寒いのか?―――――」
作品名:きりきず 作家名:なずな