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さくらさくら

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──幾度目かの春が巡ってきた。

玉藻はこの童守町で桜を見れる場所を、この小学校以外で知らなかった。
探せばいくらでもあるのだろうけど、それが億劫でもある。
ふわあと口を開けて欠伸をしたら、教職机に向かう鵺野が珍しいものを見たように瞳をぱちくりさせた。玉藻はむっとして、なんです、と返す。

「お前も欠伸、するんだな」
「……当たり前です、」

人間ですから。と言おうとしてぐっと言葉を飲み込む。玉藻は誰よりも人間に焦がれている癖に、自身を人間と認めるのには抵抗があった。
そんなことを気にする様子もなく、鵺野は目の前の答案用紙をさくさく添削する。鵺野といるとき、玉藻は彼が教師なのだと忘れがちだが、こういう姿を見ていると彼は本当に教師なのだと実感する。
再び、彼の手が止まってもう一度玉藻はなんです、と言った。

「未だに慣れん」
「一応聞きますが、何がですか」
「お前の髪の毛だ」
「……何回目でしょうね、このやりとりも」

玉藻はそう言いつつ、涼しくなった自身の首裏を摩った。
先日、気まぐれに玉藻は髪を切り落とした。病院のナースをはじめ、童守小の生徒から果ては小学校の大人しい妖怪まで。玉藻のショートヘアが一大センセーショナルを巻き起こしたは記憶に新しい。

「悔しいがお前は短髪も似合う、」

鵺野がそこで唸るように言葉を区切ったので、玉藻はその切れ長の瞳で続きを促す。

「だが……俺の知ってるお前じゃないみたいで、どうも……その、落ち着かないな」

しどろもどろでしまいにはうつむいてしまった鵺野の赤ペンが、一点で滲んで広の答案用紙に赤い染みが広がる。ふっと玉藻は微笑んだ。

「おかしな人だ。何をそんなに照れているのです」
「……っ!照れてなんか」
「照れてるんですよ。その赤ペンそっくりに」

そう言うと彼は本当に羞恥で真っ赤に染まった。
悔しそうに鵺野は玉藻を睨むと、溜息をついて机に置いてあったティッシュでぽんぽんと赤い染みを拭った。もちろんそんな行為で落ちないことは重々承知している。玉藻が不意ににやりと笑ったので、鵺野はぎょっとする。

「そもそも貴方が私を把握しているという考えが愚かなのです」
「その笑い方どうにかならんのか、薄気味悪い」
「薄気味悪くて結構。私が貴方を把握していればいいのですから。貴方は私のことなど何も理解してなくてよろしいのです」

むっとした鵺野は、何も言わずに答案用紙に再び向かう。しゅ、しゅ、とペンを走らせる音が、職員室の時計の秒針と混ざって、不思議な音を奏でる。玉藻は案外この音が嫌いではなかった。もう一度欠伸が漏れる。

「……意地悪が過ぎました。そう機嫌を悪くするのは止めてください、鵺野先生」

鵺野が顔を上げる。

「髪など貴方のご要望があればいつだって伸ばすことも、切ることも可能です。貴方が長髪の方がお好きでしたらすぐにそうしましょう」
「別にそんなこと……」
「貴方が私のことを”知っている”などと言ってくださって嬉しかったので意地悪してしまっただけです。確かに、私が貴方を把握することは人間の愛とやらを学ぶ上で非常に重要な事です。しかし、それには貴方が私のことも把握していないと」

は、と鵺野が呆けた口を晒す。

「鵺野先生、貴方は私を喜ばす術をよく心得ている」

ふわりと微笑んだ玉藻に、鵺野は無意識に手を伸ばしていた。それを玉藻がまるで宝物を触るような恭しい手つきでそっと、握り返した。玉藻はこの静かで穏やかな気持ちがとても心地良いことを知っていた。それは鵺野が与えてくれることも。
(”これ”が欲しくて意地悪をしていると知ったら、貴方はどんな風に言ってくるでしょうね)

鵺野の手を握ったまま、玉藻は口を開いた。

「もうここで開けてしまいましょうか、ビール。飲まれるでしょう?」
「……まだ仕事が……、そもそもお前が邪魔するから!」
「それは謝ります。だけど貴方を待っていたらいつまで経っても花見にならないのでね。私はここ以外に花見をする場所を知らないのですから」

諦めて溜息をついた鵺野は、玉藻の手を払って赤ペンにキャップをはめた。そうして椅子に掛けてあった黒の上着を羽織って、玉藻の足元に置いてあったビニール袋を奪い取る。もちろん中身はビール缶とおつまみの類である。

「どうせなら外がいい。折角待ってもらってたしな。ビールもつまみもお前の奢りだし」
「貴方が私に奢る根性があったらびっくりですよ」
「……こほん、」

わざとらしい咳払いで鵺野がごまかす。
先に歩き出した鵺野の後を、玉藻も追いかけた。ふと職員室の扉の前で鵺野が止まったので、その二歩後ろで玉藻も止まる。

「鵺野先生?」

一向に歩き出す気配がないので、いぶかしんで玉藻は声を掛けた。

「……お前が長髪だろうが、短髪だろうが、俺は……その……わりと……」
「──わりと?」
「……気に入ってるんだよ!」
「なぜ私が怒鳴られなきゃいけないんです……」

眉間を抑えている割に、玉藻の顔はほころんでいた。

「好きぐらい言ったらいいじゃないですか」
「お前には勿体ない」

満足げに一刀両断した鵺野は、今度こそ歩き出した。廊下の窓から見える桜は風に揺れてふわふわと揺れている。既に闇に近づきつつある空に、それは恐ろしく魅入られる姿だった。
(……まるで、貴方のようだ)
背後の玉藻に振り返った鵺野は、その姿が長髪の青年に戻っているのに、少しだけ安堵した。
作品名:さくらさくら 作家名:しょうこ