Wreath
カーテンの隙間から入り込んだ朝日の眩しさに目が覚めた。ぼんやりした視界を拭うように目をこすると、いつもより家具の少ない部屋が輪郭を取り戻す。気だるい身体を起こして、隣にいたはずの千歳を探したが、そこはほんのりと匂いが残るだけであった。先に起きていたのだろうか、珍しい。あまり広いとは言えない部屋を、布団から出て姿を探すが、部屋に千歳の影は全く見られない。
年に一度の誕生日だから、と昨日から千歳の家に来た。0時ぴったりにお祝いしてもらうはずが二人とも日付が変わる前に寝てしまい、今に至る。朝起きたらおはようの前におめでとうと千歳がいうのを聞いて、ありがとうなんていうはずがまず相手がいない。もしかして、と思い玄関を見ると、ひとり分の靴が並んでいるだけだった。まさか、今日の主役を置いて出かけるなんて。多少腹は立ったが、仕方ないなと思う自分がいる。千歳は自由気ままだし、今に始まったことではないのだ。ふと視線をテーブルの上に向けると、鈍く光るものがあった。それはいつも千歳が持っている家の鍵。ここに置いてあるということは、あいつは鍵もかけずに寝たままの自分を置いていったらしい。思わずため息が零れる。俺はかけてあった上着をとり、鍵を握る。しかし、玄関にはいつも通り鍵がかかっていた。何故か俺はその違和感を不思議に思わないままゆっくり靴を履くと、がちゃんと閉まる音を聞いてから歩き出した。
ふらりといつも千歳が歩いているだろう道を歩く。桜は咲いているが、朝の風はほんのりと肌寒い。辺りはしんと静まり返っていて、人の気配がない。この辺りはあまり人がいないようだ。きょろきょろと遠くを見渡しながら姿を探すが、全く手掛かりはつかめない。しばらく歩いて、もしこの辺りでなく入れ違いになっていたらどうしよう、とふと思った。玄関に書置きでもするべきだったかと後悔する。鍵は俺が持っているし、自分の家に入れず家主が玄関でぼんやりしているのを想像すると可哀相だ。その反面、少し笑える。どこ行ってたんね、入れんかったばい。そういいながら、子どもっぽく頬を膨らませる。そんな様子を想像すると、笑みが零れそうだった。
いきなり視界が開けると、見たこともない河原だった。川面がきらきらと光り、春の野草が揺れている。こんな場所があったのかと感心していると、緑の波の中に見慣れた頭が見えた。そうっと近寄るとやはり探していた人物。こつんと頭を小突くと、千歳はびっくりしたようで飛び起きるようにしてはねる。
「おい何しとんねん」
千歳はのん気に伸びをして、更にあくびまでしてみせた。隣に座るとへらりと笑いながら、地面につけた俺の手の上に自分の手を重ねる。体重で押しつぶされた草の匂いが、川に流れていく。風の音と川の音と千歳の呼吸音。不思議なくらいそれしか聞こえなかった。
「ここで何してたん」
身体を寄せると、千歳は何故か避けるようにして立ち上がった。おもむろに何かを掴むと、俺に見えないように何かしている。後ろから千歳、と声をかけてもまるで無反応。もやもやした気持ちで見ていると、こちらを振り返りにっこり笑った。そこからおいでおいでと手招きされ、草のかけらを払いそちらへ行く。手を掴まれると、指に草の茎の輪がつけられた。黄色い花が目に明るい。ぴったり指に合うそれは、たんぽぽの指輪のようだった。
「これ、指輪のかわりなん?」
返事をせずに首だけ縦に振ると、額にキスをして千歳は川の方へ歩いていった。後に続こうとするが、足が前に出ない。いや、出しているのに距離が縮まらないのだ。千歳はどんどん川に近づく。下駄の底が、川底に当たる音がする。千歳。呼んでも聞こえていないようで、どんどん川の中に入っていく。じゃぶじゃぶと水の音がすると、ふっと姿が消えた。こけたとか、沈んだとかではなく、存在自体がなかったかのように消えた。びっくりして川のそばに駆け寄ると、川の真ん中にたんぽぽの花が一輪、波に揺れている。
俺は川の中に入った。じゃぶじゃぶと音はするのに、温度は感じられない。そっと浮かぶたんぽぽをすくうと、それは絵の具のように溶けて指の隙間から流れていった。指輪は解けて同じように溶ける。黄色いそれは水にのまれてなくなった。
嫌な汗が首に伝い、目を覚ますとそこは千歳の部屋だった。カーテンからは朝日が零れている。怖くなって隣を見ると、夢と同じようにそこはぽっかりと空白だった。しかしテーブルの上には鍵はない。
「ちとせ」
呟くと、千歳は台所からひょっこりと顔を出した。小首をかしげこちらを見る。いつも通りのその顔に妙に安心して、俺はぽろぽろと泣き出した。千歳が驚いてこちらへ来る。
「こわい、夢みたわ」
千歳の背中に腕を回すと、大きな手のひらが髪を撫でる。あたたかい千歳の体温が、俺の早くなった鼓動を落ち着かせた。夢の内容を一通り話終えると、千歳は耳元で手を見るように囁いた。そこには夢と同じ場所に輪が見える。しかしそれはたんぽぽの茎ではなく、銀色に鈍く光る金属だった。
「あんまりいいやつじゃなかけど」
千歳がぎゅうと俺を包む。
「これは溶けんし、俺も消えんよ。お誕生日おめでとう白石。生まれてくれて、出会ってくれてありがとう」
そっと指輪に触れる。それは確実にそこにあったし、千歳は目の前にいる。
「なあ、キスしてや。口じゃないといややで」
はいはい。千歳はちょっと呆れて唇を重ねた。外に出たらあの川を探してみよう。きっとどこにもないのだろうけど。