季節の形見/まだ見ぬ春
私は不思議な気持ちになる。彼がいないせいだ、と思う。世界で初めて生まれた生きた人間のレプリカ、誰よりも生きることに貪欲だった人間、私の幼なじみ。彼は、いなくなった。私も知る範囲でだけれども、それでも、彼を知る人間全員が彼が今どこにいるかを知らない。いるのかさえも知らない。
バチカルに付いて一段落した後、城には行かずその足でファブレ公爵家にお邪魔した。叔母様と叔父様に一通りの挨拶をすませた後、私が本題に入ろうとする前に、叔母様が私が口を開く前にひとつの封筒を差し出した。そしてにっこりと笑い、これはあなたのために用意したものよ、これからはいつでも見に来て構わないから、と言った。入っていたのは、あの部屋の鍵だった。叔母様のやさしさはいつだって涙を誘う。私は口をきつく結びながら深くお辞儀をした。
彼の部屋は、定期的に掃除がされているだけで、中にあるものは何も変わっていない。いつか帰ってきたときのために、必要でしょう。叔母様はそう言って笑った。叔父様は黙っていた。私は殆ど反射的に、そうですわね、と言っていた。小さな声で、そうですわね、と。
もうすぐ春が来る。この時期になると、決まって彼は脱走を謀っては失敗し怒られていたものだ。桜が見たいとそれだけの理由で、必死に作戦を練って夜に忍んで家を出ようとする姿は想像するだけでも微笑ましい。彼は結局、桜をその目で見ることができたのだろうか。今の私には、判らない。だからそれは、帰ってきた時彼に直接尋ねることにしよう。見たことがもしもなかったのなら、一緒に行けばいい。生きている限り、桜を見る機会は何度もやってくるのだから。
もうすぐ、あなたを待って3度目の春が来る。
作品名:季節の形見/まだ見ぬ春 作家名:きみしま