romanticist egoist
「ねータクぅ、俺お弁当忘れちゃったんだよね。だから届けに来て?」
東京選抜の練習の開始前に、藤代は必ずこんな電話をする。これで何回目になるかわからない光景に、渋沢は密かに溜め息をついた。
藤代は天真爛漫だがバカではない(三上に言わせれば『超弩級のバカ』らしいが)。弁当を忘れて困るのは自分だし、だいたい食い意地の張ってる燃費の悪い男子中学生が食事を忘れるなんてありえない。
それでも彼はいっそ習慣のように弁当を忘れている。なぜか。
藤代の持ったケータイから、かすかにだが、呆れたような声が聞こえてくる。
『……それにしても、もうちょっと上手い言い訳はないの? そこまでの電車賃だってバカにならないんだよ?』
「でも部費でここまで来てんだからいいじゃん」
なんとまあ聞き捨てならないことを! 最近おかしいぐらい日誌に移動費(切符代)の文字が並ぶと思ったらそんなことしてたのか笠井。なかなか抜け目が無いなあ、あの御庭番衆め。渋沢が背後で真っ黒なオーラを発してるのにも気付かず、藤代は上機嫌で会話を続ける。
今頃笠井は『わかったわかった。届けてあげるから元気に頑張って練習するんだよ』なんて、こっちの苦労も考えずに安易に言ってくれているに違いない。なんだかんだ言って藤代には甘い笠井だ。
これ以上この馬鹿ップルの話を聞いている必要もないかと思って、渋沢がみんなのところへ行こうとすると、「はいっ」と良い子のお返事と共に藤代がケータイを突き出して
きた。渋沢はそれを受け取り、電話に出た。
「もしもし?」
『今の話、聞いてたんでしょう? 三上先輩にも声かけておきますからそれでチャラにしといてください。連れて来れるかどうかは微妙ですけど』
「俺をゆするとはいい度胸だな」
『嫌ならいいんですよ。三上先輩にキャプテンが水野のこと嬉しそうに楽しそうにしゃべってた、なんてあることないこと言うだけですから』
「……笠井」
『冗談ですよ。でも善処はしてくれないと、間宮の呪いが降りかかりますよ』
「特例で許可する(0.2秒)」
『ありがとうございます。それじゃ誠二に今から行くって伝えておいてください』
笠井はそれだけ言い残して電話を切った。ツーツー、と断続的に流れる機械音を聞き、渋沢はケータイを藤代に返した。笠井のことだ、あの場でイエスを示さないとベッドの中にエリザベス(間宮のペット。トカゲ)を入れるとか非情なこと、高笑いしながらやるに違いない。
「なんか言ってました?」
「今から行くと言ってたぞ」
「やったー! やっぱタクがいないと盛り上がんないですよねっ」
嬉しそうにはしゃぎ回る藤代を見送りつつ、きっと三上は来てくれないんだろうなあと思った。あのプライド高くて、指で触れたら一瞬にして粉々に砕けてしまいそうなほど
繊細は彼にとって、ここはまさしく鬼門に違いない。
――――確かにここにいるやつらはみんな一流のやつばかりだ。ここでサッカーをしてここで勝ち進んでいくのは楽しい。ぞくぞくする挑戦の喜びも武蔵森では味わえないものも多々ある。
けれどやっぱり三上がいないと盛り上がらない。
ゴールの前から彼を見る、陽の光に透けて揺れる黒髪を、正確無比なキラーパスを、風の辿り着く場所にいる、黒と白で描くユニフォームの背中の10の文字。あれを確認するたび胸が高鳴って神経が研ぎ澄まされていく。あの背中を信じたからこそ渋沢の無失点記録はあるようなものなのに。
「練習、始めるぞ!」
凛と張った西園寺の掛け声とホイッスルが鳴る。
渋沢はとりあえず三上のことを思考回路から追い出して、練習に参加するため、仲間が集まるところまで走った。
「やっぱり三上先輩は無理でした。すみません」
「ああ、おまえが気にすることじゃないぞ」
ぺこりと頭を下げてくる笠井に、渋沢はひらひらと手を振った。あのツンデレ女王様は健気な『会いたい』の理由じゃ揺れない。彼は自分も他人も甘やかさないから。
嬉しそうに笠井に甘える藤代を横目で見つつ、渋沢はこの世界でたった一人のあの人を思い浮かべた。
「ただいま」
慣れ親しんだドアを開ければ、こちらももはや自分の家だと思わせるほど馴染んだ部屋が飛び込んでくる。ドアを開けた瞬間の風の動きですら当たり前。そう思えるようになったのは彼のおかげ。
三上はちらっとこちらを見、「おかえり」とぶっきらぼうに言った。そう告げる声に鋭いものはなかったから、ご機嫌は普通。たったそれだけのことで瞬時にわかるようになってしまったことに渋沢は人知れず苦笑した。全身のセンサーが、この男を中心に動いている。悪くない。
ベッドに座ったままの三上に近付いて、ぎゅっと抱き締める。三上はギッと鋭い目で渋沢を睨んだ。とりあえずまだ司令塔お得意の殺人シュートは披露されないあたり、そんなに嫌でもないらしい。
渋沢は三上の肩口に顔を埋めて、浅く呼吸した。彼の匂いは松葉寮のそれだ。この世界中のどこよりも落ち着ける、帰るべき場所。
三上が身をよじる。吐息が首筋に当たってくすぐったいらしい。なんだか可愛くてクスクス笑うと、思い切り後頭部を殴られた。
「……痛い」
「当たり前だろうが」
「暴力的だな。そんなんじゃ嫁の貰い手がなくなるぞ」
「……今の言い方だと、俺が嫁か?」
「小さいことを気にしてたら大きくなれないぞ」
「男の沽券に関わる問題だ」
何を今更。渋沢は口に出さずに思ったが、次の瞬間には思い切り殴られた。試合中さながらの勘のよさで悟ったらしい。
不満そうに睨み付けてくる視線が痛い。どうやらご機嫌ナナメにしてしまったようだ。
「悪かったよ、三上」
「今更遅えよ年齢不詳男」
「……せめて年上に見えると言ってくれないか」
「冗談」
ぷいっとそっぽを向く三上に、なんだかたまらなくなって渋沢は抱き締める腕に力を
込めた。腕の筋肉や神経のひとつひとつにしっくりと馴染む三上を抱いた感触は、ひどく
かけがえないもののように思えて、渋沢は目を閉じた。
この感触や匂いが当たり前になって、安らぎを得る日が来るなんて、思ってもみなかった。
「なあ三上」
「……何」
ちょっとはご機嫌も回復したらしい声色の三上の耳元で、そっと囁いた。
もう少しこのままでいたいから、どうか、どうかあなたのままでいて。
三上は小さな声で「なんだよ」と呟いたが、取り立てて文句は言わなかった。ただ冷め切った声で彼独特の論理を刻みだした。
「変わらないものなんてねぇんだよ。時も、状況も、人の気持ちも、このままなんてことはありえねえよ」
三上はきっぱりそう言い切った、しかし、恥ずかしそうに視線を逸らしながら。
「……でも」
「でも?」
「……もう少しこのままでいたいから、ってのは、考慮してやる」
頬をわずかに染めて、ぶっきらぼうに放たれたそれに、渋沢は微笑んだ。
これだからこの男が変わらないようにと願うのだ。
作品名:romanticist egoist 作家名:ジェストーナ