儘ならないパティエンス
アーサー・カークランドは冷たい鉄のような血を持っている。
たとえば悲しいことがあって、渦巻く嫌な諸々をどうしても誰かに吐き出したくなった俺の相手をする時、つまらなそうな顔をしつつも大人しく聞いているくせに、最後に一言、お前の話の半分も理解できないと嫌味を言う。そこから話の軸はスライドして、気が付くと悪口の応酬になっていたり、とにかく最初に何を話していたかすら忘れてしまうほど意識を振り回されるのだ。
そうなると、奴は大体饒舌になった。俺の話にいつも不満そうな顔しかしない奴がニヤニヤと笑う様は気味が悪い。楽しそうに見えるからまだ指摘したことはないが、今後の人生のためにも直した方が良いと常々思っている。
「おい、手…」
「は?」
「手、よこせ」
まさか俺たちの間でこんな会話が繰り広げられるなんて誰が想像しただろうか。神様すら予想の斜め上だったと小声で告白するに違いない。
学舎から寮までの道をいつものように嫌味の応酬をしながら何故か二人で歩いていた。否、何故かではない。正確には恋愛契約から一月たった頃、突然アーサーが提案したのだ。所謂付き合い始めのカップルらしさの演出というやつだろうと、二つ返事で了承したのが1週間前。あの日、口元をへの字に歪めた表情はいかにも不本意そうだったのに、こいつはいつも何か窺うような眼差しを向けてくる。
言いたいことを躊躇しているのだろう。その、乾いてもいない唇を舐める仕草が意味していることを、俺は知っていた。
「お前、1週間ずっと悩んどったんはそれやったんか?」
「は!?な、悩んでなんかねぇよ」
「へーそうなん」
「……う」
焦ってどもった奴の失態に、ニヤニヤと笑いながら顔を覗き込む。変な呻き声をあげて逃げをうつ若草色の勝気な瞳が、うろうろと視線をさ迷わせながら眇られる様はなかなかどうして憎めない。実に人間味に溢れていて、存外気に入っている。自然朗らかになる胸中が意地悪な気持ちを落ち着かせ、素直に身をひいてやると、ようやくアーサーはこちらを見て言った。
「なんなんだ急に…」
「なんか言いたそうに口がモゴモゴしとったで」
「……」
「当たりやろ?フランシスが、唇舐めるのは何か黙ってる時やて言うてたもん」
「…へぇ」
俺のネタばらしへの反応はイマイチだった。気にするように唇に指を這わせて見せたのも束の間、その手は唐突にこちらの左手を掴む。
「なに!?」
「手繋ぐだの何だの、そんなもんが顔に出るほどガキじゃねぇ」
「じゃあ、あのモゴモゴは何やったんや」
「……そうだな」
逃げる間もない流れるような動作で引き寄せられて、ほんの鼻先にアーサーの唇が触れた。驚く肩の痙攣に、奴かららしくない苦笑が漏れて、俺はギョッとする。それは、ここにあるはずのないものだった。一度だけ見たことがある、俺の大好きな人の横顔に浮かぶ表情だったのだ。
たとえるなら、捕まえた星を瓶に詰めて大切に眺めるような、とても純粋でそれゆえに悲しい類いのもので、俺を目の前にするこの男が持ち得るはずがないもの。
言葉もなくただ、掴まれた左手に力を込めるしか出来ないこちらの様子に、アーサーは消え入りそうな声で呟く。
「…お前にキスをするとか、大切と思うこととか、そういうことを」
我慢してる。
一語一句、溢れ落ちた雨のように寂しいその響きは、心の奥深くに波紋を描く。それに応呼するように、脳裏には傘もささずに雨の中で項垂れる金髪の背中が浮かんでいた。傘を差し出して濡れないようにしてやりたいのに、俺の手は何も持っていなくて、ただ立ち竦む。そんな光景が。
ふと瞬きをする間に、至近距離にいたアーサーはもう歩き出していた。低い体温が存在感を残す左手を握り締め、ふと頭上を見上げる。既に太陽が沈みきった空には、雨が降る気配は無く、星がよく見える。寮への一本道には、もう人っ子ひとりいない。
ここに傘は無いし、あいつの上に雨が降ることは無いし、俺たちの姿を誰かに見られる心配も無い。
「おいアホ眉毛!」
俺は前を行く頼り無く寂しい男の猫背に、勢い任せに体当たりした。予想に反してその身体は地面に転がることなく、こちらの体重をなんとか支えると、もの凄い馬鹿力で俺をひっぺがして振り向く。
「何しやがるトマト馬鹿!」
その剣幕を無視して正面から抱き締めると、振り上げられた両腕が綺麗に固まる。少しだけ高い所にあるアーサーの瞳を見上げると、思っていたよりもずっと辛そうに曇っていた。雨はまだ降らない、でも時間の問題ではないだろうか。俺は居ても立ってもいられなくて、密着させた身体を更に近付ける。雨に濡れずともこんなに冷たいこいつを、少しでも温めれたら良いと思って。
「傘無かったら、ちゃんと言いや」
「何…?」
「俺も傘持ってへんけど、晴れ男やからな、きっと晴れるで」
アーサーは何故か凄く驚いて小さく息を飲むと、きゅっと唇を噛み締めて泣きそうな表情をした。慌てて離れようとする俺を今度は奴が抱き止めて、祈るように額と額をくっ付け合う。
金色の睫毛から覗く若草は素っ気なく、けれど優しい春を思わせる色をしている。それがまるで愛しいもののように思えて、今さら覚えた気恥ずかしさに顔を赤くした。アーサーはからかうことをすっかり忘れたように、困ったように目じりを下げて笑っている。
遊歩道を照らす街灯が明る過ぎるのがいけない。お互いの表情だけでなく、内側まで照らし出されてしまうのではないかと、そんなありもしないことを心配させる。
なのに何もできないでいる自分を自覚した瞬間、もう駄目だと思った。
その時には唇が重なって、密着した胸に驚くほどの熱を感じていた。滑り込んでくる舌の柔らかさを受け入れた途端、ごく自然に声が漏れる。声と一緒に感情の奔流が胸を掻き毟って、その痛みに胸を擦り付けると、じわりと汗が滲む。
「ん、ん…」
「……は、」
音を響かせて離れた唇が、ジンジンしている。ハァ、と一度大きく息を吐いた俺の唇に、あの指が触れた。さっきの低体温が嘘みたいに熱い指。鉄は冷たいが液体になれば熱い。鉄の血を持つと揶揄したのは、あながち間違いではなかった。ようやく巡りだした血液が、こいつを動かしたのだろう。
「我慢してやってたのに、台無しだぜ」
「あほか、契約違反や…」
言いながらアーサーの指を払おうと持ち上げた右手が、目的を果たす前に捕らわれる。そして、かつて悪魔との契約だと言ったあの時と同じように、指先にキスが贈られた。ただ、その慈しむように優しい仕草は契約というよりも、まるで願いのようだった。
「お前があんなこと言うから」
「…え?」
「もう、手離してやれねぇよ。馬鹿」
こいつの願いを、神様は叶えてしまうのだろうか。俺にはまだ解らない。けれど、治まらない熱を抱えた胸の内では、大切に大切に眺めるだけだった瓶の蓋が、爪先に当たって転がる音を聞いた気がしていた。
作品名:儘ならないパティエンス 作家名:まじこ