breathless
東條、と呼んでみる。でも、返事はない。彼は滑らかな首に、自分の指を這わせている。両手で、ゆっくりと喉を絞めていく。
佐野は言う。いたいでしょ。くるしいでしょ。
そうだね、と東條は答える。
それなのに、彼は痛みに従順だ。苦痛こそが、彼の世界の王さまみたい。自分の首を絞めあげながら、殉教者のように、彼はただじっとしている。
彼の首が、不意にがくり、と後ろに倒れた。佐野はその首を抱きとめる。腕の中で、彼は目をあける。
(このひとは、たったひとつの望みの他にはなんにもない、ので)
(そこには、俺すらも い な い ので)
東條は、まっすぐに佐野を見る。
その目はいつも、闇を映して、真っ黒な星のようだ。
混ざり物のない眼。
純粋で、傲然とした。
「佐野、くん?」
◇
眼を覚ますと、畳の上に転がっていた。
隣では、自分の分の毛布を抱え込むようにして、東條が丸くなって眠っている。彼はいつも、小さく体を丸めて眠る。まるで急所を庇う猫のように。
佐野は天井を眺めて、起き上がった。もうとっくに日の昇る時間だった。
おかしな夢を見た。けれど、いつも見る夢でもあった。
台所に立って、お湯を沸かす。今朝の食事の、カップ焼きそばのために。あとで東條が起きてきたときのために、一個残しておく。
佐野も東條も、あまりまめに炊事をしない(というか、東條がそんなことをやったことがあるのかどうか、佐野には想像すらできない)。自然、食事はジャンクフードやコンビニ弁当に偏りがちになったから、佐野家のごみ袋には、いつもプラスチック製品の屑があふれている。
肩越しにちらりと振り返る。東條は前に見た位置のまま、まだ眠っているようだ。
夢で見る東條はいつも目を閉じていて、少しも動かない。
彼の頬はうっすらと血の色がさしていて、肌は小麦色をしている。
指を滑らせれば、温かな脈が打っている。柔らかい。
佐野は、ジーンズと半袖のシャツに着替えた。そろそろ出ないと、バイトに遅れてしまう。
その頃、東條はやっと起きだして、佐野が出て行くのを、見るともなしに見ている。行ってらっしゃいとかおはようとか、そんな挨拶を口にしないところが、自分たちらしいのかもしれなかった。
自分が家にいない間、東條が何をしているのか、佐野は知らない。考えてみたこともあるが、うまく想像できるほどには、彼のことをよく知らないのだ、と思う。
前に帰ったときには、布団を被って文鳥をつついていた。今日もそうしているのかもしれない。
(結局のとこ、)
佐野は、このごろよく思う。
(俺たちって、何してんのかな)
着るものを貸して、食べ物を分けあって、夜は同じ場所で眠ってる。
一緒に暮らしてる、毎日。
そうすることで、何を得られると思っているのだろう。
友達?
恋人?
家族?
(つったって、相手はあいつですけど?)
たったひとつの目的の他には何も目に入っていないような、傍らにいる人間が誰なのか、きちんと認識しているのかもあやういような、東條。
佐野の毎日は、そこまで先鋭的ではいられない。日常はもっと灰いろに濁って、面倒で、息ぐるしいものだ。
傍らで人の眠る気配を感じる時、少しだけ、その息ぐるしさに意味があるような気がする。彼の手を握り、子どもみたいな体温の高さを感じれば、やっぱり少しだけ、安心できるような気もする。錯覚かもしれない。けれど佐野は正直、本当のこと、なんてどうでもいいのだ。
でも、東條は……。
家に帰ると、東條が文鳥の籠の前に座っていた。
今日は布団は被っていない。部屋の電気は相変わらずつけられていなくて、日の落ちた部屋の中は、暗がりに沈んでいた。
「どうしてあんたって、幾ら経っても電気をつけるってことを覚えないんだろーね……」
暗くなったら電気つけるってコレ、常識でしょ。佐野は電灯のスイッチを入れながら、部屋の中にやれやれと足を踏み入れた。
東條は、そんな佐野を少し不思議なものを見るように見ていた。それからぽつりと、早かったね、と言う。
「今日は交代の奴が早く来たんだよねー、っと。センパイ、腹減ってる?コンビニおにぎり貰ってきたんだけど」
「いらない。おなか空いてないから」
「そお?」
佐野はペットボトルのお茶を手にとって、畳の上に腰を下ろした。無造作にあぐらを組む。
「なにしてたの、今日」
「べつに……。鳥見てただけ」
「ふうん。さっき、不思議な顔して俺のこと見てたじゃん。あれは?」
「……佐野くんは、明るいところにいるのを不思議に思うことがないんだなって思っただけ」
東條は、興味を失ったようにくるりと背を向けた。
(明るいところにいるのが、不思議?)
生きものは、光に向かおうとする。暗闇のなかにいれば、なおさら。なぜって、その光しか見えないので。
本能のように。
東條が見つめ続けている、英雄という名が彼にとっての光だ。
光しか見えない。東條にとって、ここは暗いところだから。
けれど佐野がつけてやれる光は、東條の目に少しも映らない。
「東條」
手を伸ばして、唇を吸いつくように奪った。乱暴なやり方をしたのに、東條は軽く目を瞠った以外は従順で、夢の中で見た彼のようだった。顎を掴んで、もっと深く口づける。「ッ、……」小さく、東條が息を詰める音がした。
与えられるものなどないのだ。東條の真っ黒な目には、光しか映っていない。
良いものを分かちあえないのなら、傷でも、痛みでもいい。たったひとつだけ、消えないものを彼に。佐野はそう思う。ほとんど願っている。
そうできたら。そうできたら。
東條は一時でも、光の名前を忘れるだろうか……。
舌先を軽く噛むと、東條の顔が微かに歪んだ。息がくるしくなって、それでもキスをするのをやめない。東條は顔をしかめるくせに、縋るような指は、裏腹に佐野の手を握り返してくるのだ。必死になって。
溺れあうふたりのように、手を絡ませたまま抱き合っている。このまま息ができなくなってもいい、と一瞬本気で思い、泣きそうになって、それをごまかすためにもう一度キスをした。
end.
作品名:breathless 作家名:リカ