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affettuoso

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カッチ、カッチ、カッチ、カッチ―
メトロノームのテンポを耳で捉えながら弓を引く。アンダンテ、ゆっくり歩くように。果穂子はメトロノームに合わせてトントントンと足でリズムをつかみながら、演奏に集中した。

 放課後の練習室。窓の外の真っ黒な空に、ぽつんと浮かぶ月が見える。
寒さが増すにつれて、コンクールに向けての練習も追い込みの時期となり、最近は普通科の運動部とそう変わらない時間に帰ることもざらだった。
夜の方が、音が澄んで通るような気がする。日差しの暖かな公園で演奏するのも好きだけど、一音一音に集中して練習するには、きっとこっちの方がいい。集中も途切れることなく、気分が乗っているのがわかる。果穂子は楽譜に記された記号に気を付けながら、譜面を追って2枚目に進むと、そこで指先が少し緊張した。
(ここなんだよね)
練習を重ねて弾き込んでいる曲だけど、この先の3小節目でいつもつっかかってしまう。ゆったりとした旋律。滑らかに、音を切らずに繋げていくところ。
のはずだけど。
やっぱりイメージ通りの音にならず、果穂子は手を止めた。
(う~ん、どうしてもここがうまくいかないなぁ)
口を尖らせながら五線の上の音符を指でなぞる。「レガート」の意味は、音を切らずに滑らかに。
一呼吸置いて、もう一度音をおさらいした。私の解釈は、ゆっくりした、優美な雰囲気。頭の中でイメージしてみると巧くいくのに。
こんなときに頭に浮かぶ手本は、いつも月森の音だ。記憶の中にある、あの正確な旋律を思い出して反芻すると、徐々に清々としたあの音が体内に満ちていく気がする。
目を瞑って指で拍を取りながら、今度はそれに自分の音を重ねていく。頭の中でぴったり重なった二つの音色に、果穂子は笑みを浮かべて瞼を開いた。
(よしっ)
すっと背筋を伸ばして、ヴァイオリンを構える。
もう一度、と弓を引いた瞬間、果穂子の音色を打ち消すようにチャイムが鳴った。

「っやば!」
時計を見上げると、最終下校の時刻だった。
いつの間にかこんなに時間が経っていたなんて。
果穂子は帰り支度もそこそこに、ヴァイオリンを抱えて足早に練習室を後にした。

***

「ごめん月森君!おまたせ!」
エントランスを抜けて果穂子が息を切らして向かった先、薄暗い街灯に照らされて佇んでいるのは、月森だった。
月森が大丈夫だと返して、駆け寄った果穂子が息を整えるのを待ってから、二人で並んで歩き出す。
「何かあったのか?」
乱れた髪を手櫛で梳かす果穂子に月森が尋ねた。彼が訊いているのは、ヴァイオリンの内容についてだ。今日は果穂子が一人練習室に篭っていたのを知っているから。他人に興味の無さそうな月森が、こういう些細な部分でも自分を気にかけてくれるのが、果穂子は嬉しかった。
「うん、まだちょっとうまくつかめないところがあって。」
今までも違う楽曲で躓いたことのある部分だったので、少し恥ずかしい気持ちで打ち明けた。でもこの際恥ずかしいなんて言っていられない。月森にアドバイスしてもらえるこの幸運を潰す方が、道理的に間違ってる。
実際に楽譜を取り出してココ、と指すと、あぁ、と得心した顔で月森が頷いた。
「私ね、いつも間違えるとこ、月森くんの演奏思いだして練習するの。手つきとか、真似してみるんだけど、どうにもうまくいかないんだよねぇ。」
「君はレガートは苦手だったな。」
「そう。どうしてもキレイに繋がらないんだよね。イメージ通りにならなくて。月森くんは、さすがだよね。」
そう言って、果穂子は月森を見た。隣に並ぶ月森は少し見上げる形になる。月明かりが薄く照らす横顔を眺めながら、演奏している彼を思い出していた。清廉な音質。滑らかな弓運び。ちょっとうっとりするくらいの。思わずため息が漏れそうになるのを、慌てて飲み込んでこらえた。
「―そんなに、見ないでくれないか」
「えっ」
少しぼんやりと眺めていたから、急にそう言われてびっくりした。
でも見るなって。そんなこと言われると、ちょっと意地悪したくなっちゃうじゃない。
「でも月森君は、見られることなんて慣れてるでしょ。コンクールとか。」
何千規模の観衆に比べたら、こんな果穂子の視線など無いも同然だ。にっこり笑ってそう言うと、月森はやや憮然とした顔でぽつりと答えた。
「赤の他人と君とじゃ、訳が違うだろう」
言われた言葉を、果穂子は少しの間反芻する。違う訳って何?そんなバカな質問は口に出さずとも理解できた。出来たから、困る。果穂子は上手く言葉が紡げずに、とぎれとぎれに呟いた。
「あの・・・月森君て、時々すごいよね・・・」
だんだん顔に血が上るのが分かって、思わずうつむいた。顔ばかりかっかしてきて、果穂子はパタパタと手で頬のあたりを仰ぐ。
月森もそんな雰囲気をごまかす様に、咳払いを一つして口を開いた。
「・・・さっきの話、まだ上手くいかないようなら明日一緒に練習しないか。」
「えっ本当?ありがとうっ嬉しい~!」
願ってもない月森の提案に、まだほんのり赤味の残る顔をぱっと上げて、果穂子がぴょんと飛び上がった。
喜んだ顔が見れて良かったと、月森は素直に思った。これくらいならいつでも、とも。口には出さないが。彼女にかける時間が無駄になるとは思わない。こういう関係になる前から度々練習を見てきたが、その頃からどこか彼女に惹かれていたのだろうか。
―きっとそうなんだろう。

果穂子は、はしゃいで顔の前で合わせた手に、そのままはぁ~っと息を吹きかけている。見ると指先が赤くなっていた。
「寒いなら手袋をしたらどうだ?」
「今日、忘れちゃったんだよね」
咎められると思ってか、ばつの悪そうな顔で視線をはずして果穂子が言った。尚も吐きかける息の先、白い手の先の赤い色が、見ていて痛々しい。
「・・・指は、大事にしなくては駄目だろう。」
月森はそう言っておもむろに手袋をはずし、果穂子に渡してみせた。
えっ、と驚いた表情の果穂子は、手を胸の前で振り、受け取ることを拒否する。
「だめだよっそれじゃ月森くんが寒いじゃない!」
「俺は今まで付けていたから、別に心配する事はない。」
月森は言って早々に片手をポケットにしまって、果穂子に手袋をぐっと押しだす。
お手上げのポーズのまま、受け取ることもできず渋っている果穂子の頭に、あ、と妙案が浮かんだ。
「わかった!こうしたらいいよ!」
月森に差し出された手袋を片方だけもらって、手にはめる。さらにその反対の手を差し出して、にこりとほほ笑んだ。ちょうど握手を求めるような格好だ。
「ほら、こうしたら二人であったかいよね。」
月森はまさかこんな返しが来るとは思わず、面喰って制止していると、果穂子に「そっちの手、手袋してね。」と重ねて促され、ポケットに入れた手を出して、手袋をはめた。それから反対の手で、ゆっくりとぎこちない様子ながら、差し出された手を握る。音にしたらぎぎぎって、錆びついた音でもしそうな動作だったけど。

「ふふふ」
やってはみたものの、思いの外素直に手を握ってくれた月森に、果穂子は内心びっくりしていた。
嬉しくて思わず笑みがこぼれる。
だって、帰り道に好きな人と手を繋いで歩くなんて。それもこの気難しそうな相手と。
作品名:affettuoso 作家名:hnk