唾と蜜
例えばロマーノが小さな頃、怖い夢を見て泣く彼を抱きしめて宥めるのはスペインの役目だったし、スペイン自身そうしてロマーノの役に立てていることを誇りに思っていた。ロマーノは一度とて口にはしなかったし、恐らくこれからもすることがないだろうけれど、夢の中がどれだけ恐ろしげな世界であろうとスペインの腕の中にいるときロマーノは確かにその悪夢から逃れることが出来ていた。どんなに怖い夢でもその瞬間ロマーノは救われていた。それらは決してスペインの自惚れではなく、願望でもなく、ただ当然のようにそこに存在する事実だった。
スペインはそれを知っていた。
子分を守るのは親分しかいないと―――つまり、ロマーノを守るのは自分しかいないと、親鳥が小鳥を守る保護欲そのままにスペインは長い間ロマーノを守り続けていた。
だから急に鳴り始めた雷の音にロマーノが怯えているのを見て、一緒に寝ようかと軽く提案してしまった自身をスペインはあとから悔やむことになるなど想像すら出来なかった。
「……雨、止まへんなぁ」
雨粒が窓を力強く叩く。その音を聞きながらスペインは独り言のような小さな声で呟いた。頭まですっぽりと毛布に潜り込んだロマーノから返答はない。元よりそれを望んでいたわけではなかった。眠っているのだろうかと思うが、直後響いた雷鳴にロマーノの身体が反応したのを見てまだ眠ったわけではなかったのかと訂正した。
普段ならば真ん中で眠っているベッドだが今日は隣にロマーノがいるのでいつもより窓に近付いている。その所為なのか、それとも強い雨の所為なのか、雨の音がいつもより鮮明にスペインの耳に入り込んだ。
雷鳴は遠くへ去ることを忘れたかのように未だその力を保っていた。ごろごろ、と低く轟く度に同じベッドで横になっているロマーノの身体が跳ねるものだから、ロマーノが安心して眠れるまで自分も眠ることは出来ないな、と思いながら窓にぶつかり続ける雨粒を思う。雨粒は窓に当たって線状になりながら、それでもまだ降り続いているのだろう。
二人分の温もりを湛えたベッドは容易に睡魔を掻きたてる。眠ってしまいそうになるたび、隣から聞こえるシーツの擦れる音がスペインをこちら側に留まらせていた。
―――昔のように頭を撫でてやれば、或いはロマーノは眠れるだろうか。
ぼうっとそんなことを思う。けれどロマーノは素直ではないから、きっと顔を真赤に染めてスペインを罵倒するだろう。そうして興奮させてしまえば眠りは逆に遠くなる。子どもならば頭を撫でれば安心して眠ってくれるが生憎ロマーノはもう子どもではなかった。
一番良いのは雷雲が遠くへ行ってくれる事だ。
そう思っていると、隣から「うう」と小さな唸り声が聞こえた。
「……ロマ、どないしたん? お腹でも痛いんか?」
「……………なんでもねぇよ、コノヤロー」
いつものようにぶっきらぼうな言葉だったが、そこには何故か―――スペインの勘違いでなければ―――照れ隠しのような雰囲気が隠されているように感じた。だが照れる要素などどこにもないだろうと逡巡し、自分の勘違いだろうとスペインは納得する。そしてついいつもの癖のように、さらさらと柔らかな髪の毛を撫でた。ぽんぽんと、子どもをあやすような手つきで。
そこですぐに気付く。こうして子ども扱いされることを、ロマーノが好まないことを。
怒鳴られる前に、と、手触りの良い髪を名残惜しく思いながらゆっくり頭から手を離す。同時にふわりと甘いシャンプーの匂いが鼻腔を擽った。自分と同じものを使っているはずなのにこうも甘く香るものなのか。不意にそう思いながら伸ばした手を毛布の中に戻した。いつもより暖かなベッドの中で、容赦なく睡魔が襲う。目蓋がどんどん重たくなっていった。でもロマーノより早く眠るわけにはいかない―――そう思っていたとき、ゆっくりとだが確実に小さくなった雷鳴がスペインの耳に届いた。
「お、雷遠くなってきたなぁ」
「………ん」
「ロマ、悪いんやけど、親分もう眠ぅなってきたわ。そろそろ寝てもええ?」
「別に…さっさと寝れば良いじゃねーかよ。……起きててくれなんて頼んだ覚え、ねーぞ」
「はは、せやなぁ。……じゃーおやすみ、ロマも早よ寝るんやで」
ごめんな、と胸の中で呟く。ロマーノを先に寝かそうと思ってたんに、不甲斐ない親分でごめんな。
口にするとロマーノは逆に怒るから、胸の中だけで言う。おやすみと返されたロマーノの声が柔らかく響いた。
しとしとと雨粒が窓を濡らしているのを耳で拾いながらゆっくりと呼吸を落ち着ける。吸って、吐いて。吸って、吐いて。そうすればすぐに睡魔が身体を蝕んでくれると思っていた。けれどどうしてか今日に限って睡魔がこの身体を蝕むことはなかった。ついさっきまで、上瞼と下瞼が磁石になってしまったようだったというのに実際目を閉じても眠りは訪れない。だがもう一度目を開けるのも何だか癪だった。
「…………」
どれくらい目を瞑っていただろう。雷鳴は耳をすまさなければ聞こえないくらい遠くなった。雨脚もどんどん弱まっているのが音で分かる。明日はきっと晴れるだろう。
起きたらトマト畑に行こう。雨粒が赤い実に張り付いて太陽の光を反射させていることだろう。どんなに綺麗だろうか、スペインがそんなことを考えていたその時、不意に隣にいるロマーノがゆっくりと身体を起こした気配がした。
トイレにでも行くのだろうか。子どもの頃なら起こされて一緒にトイレまで付いていったものだ―――そんなことを思っていると、目を閉じている自分の顔のすぐ横に手を置かれるのが分かった。ふわりと、香るはずのない甘いシャンプーの匂いがすぐ近くで香った気がした。いや、気の所為などではない。ゆっくりと、顔に何かが―――目を開けなくても分かった。ロマーノの顔が近付いている。
そのすぐ直後に口唇に柔らかなものが触れた。少しかさついた自分の口唇とは違う柔らかなそれは、切ないくらいに狂おしい温もりをスペインの口唇に与える。
(何でや)
ゆっくりと離れていくその温もりに、心の中で問いかける。何でキスなんかした。何で俺なんかに。何で。何でや。
離れた口唇を強引に戻したくなる勢いをどうにか押さえつける。今まで保護の対象でしかなかったロマーノにキスされたぐらいで頭をもたげ始めた劣情のような汚い感情に驚きが隠せない。だってこんなのは可笑しいだろう。守ってあげたい存在だったのに、その真逆の感情が身体の中に渦巻くなんて。
自分の中の、今まで直視したことすらなかった感情に気付いてしまった。もう戻れないかもしれない。いや戻るつもりすらないのかもしれない。
数え切れない罪を重ねていく覚悟は出来ている。例えそれを孤独の痛みで償うことになろうとも。
あの口付けはこれからの始まりか。それとも今までの終わりなのか。もう一度寝転び、今度は背を向けたロマーノを思いながらそんなことを考える。
窓の向こうで遠雷が轟くのをスペインの耳が拾った。まるで動揺しているスペインを嘲笑っているようだとスペインは腹立たしささえ覚えながら漠然とそう思った。
作品名:唾と蜜 作家名:ラボ@ゆっくりのんびり