鰤ログ
「好きだ」
そう告げたのは、もうこれで何度目か。数えるのも面倒臭い、それ程には口をついて出た言葉。昂る感情とは相反して震える拳を握り締め、ありったけの気持ちを込めているというのに。冷たい闇を背負う目の前の男には決して届かない。冴えた双眸に映し出されるものは何も無く、無機質な輝石をただただ見詰め返した。
「好きだ」
「ハイ」
「好きなんだよ」
「ハイ」
「好きだよ、浦原」
届け届け届け届け。願って想って切望して。飛沫を上げる大波は、岩に当たって儚くも砕け散る運命に。届く前に、飲み込む前に、霧散しては落ちて行く。はらはらはらはら。その大海原では欠片を集める術も無く。きらきらきらきら。ああ、何て奇麗。
「好きなんだ」
闇を孕んだ静かな海は、細波だけを残して退いて行く。細い細い月明かり。煌煌と照らすは暗い昏い闇の奥底。何人たりとも入りえぬ場所。ゆらゆらきらきら。細い暗い渇いた荒野。その入り口を垣間見ても、飛び込む度胸が己にはあるか。行くのか退くのか二度と開かぬ闇夜の門戸。
「好き」
恍惚と輝く月を呑み込むのか抱くのか。そのどちらでも良いと思うし、そのどちらもしたくは無いと思う。ああけれどもそう。手放したくは、無いと思う。だから願うよ。だから想うよ。だからだから、
「好きだよ」
触れるのも堕ちるのも厭わないから。ねえだから。
「好きなんだよ、浦原」
掻き抱け奪い取れ。其処に貴方が居る限り。
「……ええ」
男はゆるりと笑みを浮かべ、凍えた瞳で冴えた眼差しで両腕を広げてみせた。巌を呑み込む。粉々に砕けて壊れる音を間近で遠くで聞きながら、闇を背負う柔らかな月に抱かれて、甘く薫る夢をみる。
「折角距離を置いてあげたのに」
そう嘯く男は矢張り冷たい空気を纏っていて、それでも瞳に燻る小さな焔は消せはしない。
そう、君がそうしてそこまでそうやって、その下らない軽薄な言葉を吐くのなら、アタシは精一杯腕を広げて落ちない様に零れないようにその言葉の欠片を拾いましょう。壊れた玩具を後生大事に抱えるように、大切に懐に仕舞っておこうじゃありませんか。護ったのはアタシ。破ったのはキミ。ねえだから、
「アタシに堕ちて」
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『断罪』
ザアザアザアと、流れるは、
「雨、やっぱり降りそうですね」
誰に言うでもなく呟かれたものに、返す言葉は何も無い。むわりと立ち上る蒸気にほとり、雫が頬を伝って流れ落ちた。
「暑い」
「そりゃこんだけ湿気があれば、当然でしょ」
雨が降る感覚。雨の降る感覚。雨が降る、前の、
薄墨色の膜を貼りつけた天井は、今にもぷつりと弾けて堕ちてきそうな勢いで。それでも動かない動けない。停滞した空。靡かない雲。動かない揺るがないその一画、その――記憶。
突如打ち付ける様に振り出した雨粒に、映し出される過去の欠片。零れ落ちて流れ溢れて。
唐突にゆうるりと拘束される。背中越しの微かな体温、僅かな隙間。それが愛しくて切なくて遣る瀬無くて困る。何を言うでもなく何をするでもなく、ただただ緩やかに。
「うらはら、」
掠れた声を出せば、くたりとした笑みが背後から伝わる。顔を合わせる事は到底出来ず、鉄格子の様な雨を只管眺めた。雨の匂いに紛れて、微かな煙草の香り。背後のぬくもり。確かな気配。吐息にさえ敏感に反応して。ああそれは生きている証なのだと。
ザアザアザアと流れるは過去の残骸。
さめざめとしとどに濡れるは過去の残像。
ザアザアザアと、響くのは、
end.