プラトニック・ラヴ
「…っ」
どちらのものか分からない、息を詰める音がした。
重ねた唇を離し、政宗は呆然とする彼の顔をとっくりと眺めた。滅多に見られないはずのそれは、ものの数秒も経たずに、いつもの微笑にやや困ったような色が混じっただけの苦笑に変わる。
「…服がのびてしまいます」
「……言いたいことはそれだけか」
「ええ。だからどうか、手を」
みなまで聞く前に、政宗は突き飛ばすようにしてその手を離した。忌々しげに舌打ちした彼のことなど気にも留めず、幸村は先程の衝撃でボタンが外れていないかを指で確かめている。
「今日は早いのか」
「いえ。正確な時刻は分かりませんが、深夜近くになると思います。ですので夕食は用意して頂かなくとも構いません」
「いや、冷めても味の変わらないものを作る。食べるのも出来る限り待っておる」
一見健気な言葉にも聞こえるが、その実、単なる政宗のわがままだ。こんな申し出は、優しい幸村を困らせるだけだと知っている。彼は嘘も誇張も言わないから、本当に仕事が詰まっているのだろう。夕食だって、まだまだ肌寒いこの時期、わざわざ遅い時間に家で冷えた手料理を味わうよりも、外食したほうがよっぽど良い。
それを分かっていて、政宗はそれでも口に出してしまう。
「出来るかぎり早く帰ってこい」
「努力します」
曖昧な笑みと答えは、誠実な彼らしかった。
「政宗殿こそ、あまり寄り道なさらぬように」
「それは無理じゃ。なにせコンビニの新作スイーツがわしを呼んでおる」
あと、もう少し料理のレパートリーを増やしたいから、レシピを求めて本屋にも立ち寄るだろう。冷めても美味しい夕食の献立も考えなければなるまい。独りで暮らしていたときにはあり得なかった思考がこそばゆい。
「それと、喧嘩も駄目ですよ。政宗殿がお強いことは知っておりますが、万一ということもあります」
「分かっておるわ。小十郎か、お前は」
言い聞かせるような幸村の口調は、実家に居る小うるさい家令を思い出させて、政宗は眉間にしわを寄せる。その年相応に幼い表情を見て、幸村はいっそう笑みを深くした。
「何を笑っておるのじゃ」
「いえいえ」
「気に食わんな。答えろ」
「政宗殿は本当に可愛いらしいなと」
「嘘をつけ。まったく…あのいけ好かん似非ツンデレよりも、お前のほうがよほど狐らしいわ」
「ツン…?なんですか?」
「お前は知らなくて良い」
ふいと顔を背けると、幸村は不思議そうに首を傾げただけで深く追求しては来なかった。
「ところでそろそろ出ねば間に合わぬぞ」
「あ、そうでした。今日は朝から会議があるんですよ」
こちらに背を向けて、ぱたぱたと小走りに玄関に向かう。机に置きっぱなしの弁当包みを手に、政宗も後を追った。
「財布持ったな?」
「いったい貴方は私をなんだと思ってるんですか」
ぶちぶち言いながら上り框に腰かけ靴を履いていた幸村が、不意に何かに気が付いたように振り返った。
「そういえば政宗殿。先程のあれはいったいどういう意味で?」
「いまさら聞くな、馬鹿め!」