君の名は
そのうちにいつのまにか千寿の顔役、泣く子も黙る双黒組の若頭、佐竹の話題になっていた。今回の仕事でも、彼を頼ってみるといいかもしれないとかなんとか、そんな事を言ったように思う。
ライドウはかの任侠を彼なりに慕っているようなのだが、それでも俺がその名前を出す時に僅かに機嫌を悪くする。付き合いが短い頃は分からなかった。彼の表情の変化は小さなものだから。しかし最近は自分が彼の感情の機微を読みとるのに慣れて来たのか、それとも彼が俺に感情をより多く見せてくれるようになったからか、少なくとも俺にはそれで充分に伝わる。
なんでかなーと常々不思議に思っていたのだが、ライドウがついに口に出して不機嫌の理由の一端を述べた。何故俺はかの任侠を名前で呼ぶのかということを、だ。
それでようやく俺は気がついた。そして驚いた。彼は俺がまれに佐竹を「健三さん」と呼ぶのに嫉妬していたのだ。そうだったのか。迂闊だった。
俺が佐竹を名前で呼んでしまうのにはとある経緯があるのだが、それなりに長いその話を1から丁寧に語っていたら、一冊の本を読み上げるのと同じ程の時間が必要になるだろう。
かといって適当に端折って伝えると、目の前の青年に正しく認識してもらえるか自信がない。変に誤解されては困るし。
彼が佐竹に嫉妬をするというのは実に理に適っている。が、的外れであるとも言える。俺と佐竹は昔それなりに遊んだし、身体の関係もあった。相性もそんなに悪くなかったし、お互い憎からず思っている。でも世間一般で言う恋人とか情人とか人生の伴侶とか、そんな関係にはならなかったし、今後もなりそうにない。敢えて言うなら「親友」なのだろうか。世の親友たちがみな肉体関係を持っているわけではないと思うけど。
それで俺は彼の質問をはぐらかすことにした。
「何? ライドウくんも名前で呼んで欲しい?」
すると彼は言葉に詰まったようだった。俺は普段彼を「ライドウ」と名前で呼んでいるけれど、これは本名ではない。本名を教えてくれない事を暗に揶揄する形になったからだ。
とはいえ−−俺は本気で彼の名前を知りたい訳ではない。本当の名前を明かせないのはお互い様だ。俺は本当の名前を明かしあった相手としか付き合いができないなどと思ってもいないし。
ライドウは少しばかり口ごもった後、本名を教えたら自分も所長を名前で呼んでいいかと問うた。彼にしては珍しく、わずかだが頬を染めている。彼にとってはそれは思い切った質問らしい。
「うーん…そうだなあ。別に本名を教えてくれなくても、お前が俺を名前で呼ぶのは構わないけどさ…」
俺は考えた。
「もしも人ごみなんかで下の名前呼ばれても、振り向けないかもなあ」
鳴海の名前を名乗ってから、俺を下の名前で呼ぶ人間はいなかった。付き合いのある相手はみな苗字を呼ぶのだ。だから苗字にはそれなりに馴染んでいるが、下の名前にはまるで馴染みがない。俺にとってそれは書類上のものでしかなかった。
ライドウは俺の言葉の意味を察して沈黙している。こいつは俺が昔陸軍にいた事を知っている。詳しい事は話したことがないが、そこで俺がどんな事をしていたのか、ある程度は想像がつくのだろう。
僅かとはいえ気まずい沈黙を作ってしまったが、当初の目的である「話題をそらす」ことは達成出来たのでまあいいか。
そう考えていたところ、ライドウが言った。妙に嬉しそうに。
では僕があなたをその名前で呼ぶ最初の人間になりますよ昌平さん、と。