夏の嵐
夏の終わりのある昼下がり、サンジは甲板の柵によりかかり煙草を吸っていた。
昨夜の台風による嵐が一段落して、徹夜で舵取りに船の補修に奔走したクルーたちは、船室の中で、疲れ果てた体で眠りをむさぼっている。サンジはそんなクルーたちの働きをねぎらうため、いつもより豪華な夕食のメニューをあれこれと思案しているところだった。
嵐の名残の強い風が吹き、気温が高く蒸暑い。
遥か彼方に去った濃い雲の切れ間から、青い空が覗いている。光の帯がいく筋も、凪いだ海原に刺さっている。
サンジは紫煙を吐き出しながら、高いところにある青を見上げ、少し目を細めた。
船室の扉が開いて、大きなあくびをしながらゾロが甲板に出てきた。
「お目覚めか?」
サンジが振り返って言うと、ゾロはそんなサンジを見てうなずき、彼の方へ歩いてきた。
「お前は寝ないのか?」
そう言って、サンジの隣に立つ。
「俺は今から夕食の準備。お前何が食いたい?昨日は嵐のせいで満足に飯食ってる余裕もなかっただろ。だから今日はうまいもん食わしてやるよ」
サンジは少し微笑って答えた。そんなサンジをゾロは黙って見つめる。
「お前、寝なくて平気なのかよ。夕べから一睡もしてないだろ」
「・・・何だよ、心配してくれてんの?」
サンジがそう言うと、ゾロは不機嫌な表情をして、海の方に視線をそらした。
海から強い風が吹いて、サンジの金色の髪を揺らす。彼のシャツが空気を含んで、大きくはためく。
ゾロは何故か、落ち着かない気分になる。
「お前こそ、もう昼寝はいいのかよ。いっつも夕飯まで馬鹿みたいに寝こけてるくせに」
「鍛錬の時間だ。昨日はそれどころじゃなくてさぼっちまったからな。体が鈍る」
「へえ、それはご苦労様。世界一の剣士を目指すってのも大変だな」
サンジはからかうように言い、首を傾げるようにしてゾロを見た。
「んだよ」
ゾロが言うとサンジは「別に」とだけ答え、視線はそのままに口元に煙草を銜える。
2人だけでいて、かつ喧嘩していない時のサンジはよくわからない、とゾロは思う。
彼独特の間の取り方とか話し方とかが、いつもゾロを奇妙な気持ちにさせる。ふいに視線を合わせてきたり、やけにつっかかってくると思えば、妙に優しい言葉をかけたり、屈託のない笑顔を見せたりする。
わざとやってゾロの反応を楽しんでいるのかと思えば腹立たしいが、無意識にやっているような感じなので怒るタイミングが掴めない。
こういうときは早く立ち去るに限ると、ゾロが踵を返そうとするとサンジが不意に言った。
「世界一になるって、どんな気分だろうな」
ゾロはサンジを見る。彼はその青い瞳を青い海に向けている。どこかここではない場所を見るような視線に、やはり彼の感情が全く読めないゾロは軽い苛立ちを感じる。
「さあな、なってみなきゃわかんねえだろ。そんなもん」
「そうだよな」
「そうだ」
サンジはゾロを見る。
「でも、もし世界一になる前に死んじまったら?何もなんねえよな。そうやってお前が馬鹿の一つ覚えみたいに毎日毎日体鍛えてることとか、無茶な戦いかたして体中に傷作ってることとか、全く意味がなかったってことにならねえか?こうやって俺たちと旅してることとか、昨日みたいに嵐のなかで必死になることとかもさ」
「意味なんか必要なのか?」
ゾロの言葉にサンジは少し意外そうな顔をした。
「俺は世界一になること以外、考えてねえ。命なんてとっくに捨ててる」
ゾロの言葉に、サンジは黙って聞き入っている。
「・・・でも昨日、嵐の中をお前たちと駆けずり回ってるのは楽しかった。お前らと航海するのが楽しいからお前らといる。それ以上に意味なんか必要なのかよ」
「お前ってほんと単純だよな」
サンジは笑って言った。
「うるせえ」
「でもお前のそうゆう単純で馬鹿っぽいところ、俺は好きだぜ」
そう言ってサンジは、煙を吐き出しながら踵を返した。そのまま彼の背中は、煙の膜の向こう側にあるキッチンの扉へ消えていった。
残されたゾロは一人、落ち着かない気持ちを持て余しながら、遠くに浮かぶ雲に目を遣った。
彼の持つ言葉や感情は、ゾロのそれよりも随分と複雑にできているらしい。
そのことに気がついてはいても、その感情に焦点が合わないまま、時間だけが通り過ぎてゆく。
一度そのことに腹が立って、理解できない言葉遊びを紡ぐサンジの唇を無理やり自分の口で塞いだことがあった。刹那にとった行動だったが、サンジはブルーグレイの瞳を真ん丸に見開いて黙ってしまった。その後、思いっきり蹴り上げられたのだけど。
しかしあの時、ゾロがサンジに触れたいと思ったことは明確な事実だった。
そしてその日から、ゾロの心に嵐の後の静けさが訪れることはない。
欠落を欠落のまま、曖昧を曖昧なまま伝える言葉が存在すればいい。
寄せては返す波の音が、苦い記憶を洗う。嵐が夏を奪い去り、夜になれば次に訪れる季節の予感が辺りに満ちるだろう。
波の音が気持ちを落ち着かせるというのは嘘だ。
ゾロは静かにそう思っていた。