甘い水
目が醒めると、サンジの寝顔があった。
いくつか並んだベッドに隣り合わせで眠っていたことに気づく。
清潔そうな香りのするシーツに包まれて、眠る男はどこか子どもの様な無防備さを眉の間に留めている。僅かに開いた口の隙間から白い歯と赤い舌が覗いている。
ああ、生きてるな。
ゾロは心に浮かんだ実感を噛み締めて、ひとつ息をつく。
月明かりが白いシーツに染みて、そこにいく筋もの雨の影が散っている。
近くで誰かの話し声が聞こえる。
ゾロはもう一度、サンジの寝顔を確かめてそのまま目を閉じた。
胸には微かな温もりが満ちていた。
次に目覚めたとき、隣のベッドにサンジはいなかった。
ゾロは手を伸ばしてサンジが寝ていた場所に触れると、体を静かに起こした。
その瞬間、体に乾いた痛みが走る。
自分の体に視線を遣る。胴体に巻かれた包帯は眠っている間にあらかた手当てが終わっていることを示している。
疲労と傷のせいで、頭に靄がかかったように思考がぼんやりしている。
他のベッドでは仲間たちが盛大に寝息をたてている。窓辺にもう人影はない。
ゾロはゆっくりとベッドから降りると、そのまま部屋を出た。
寝室の外は石畳の廊下が続いていた。
硬質の足音を響かせて、ゾロはその廊下を歩いた。
暗い廊下を白い寝間着のまま歩いていると、自分の存在感が少し薄くなったような気分になる。
倒れるように眠りに落ちる瞬間までの密度の濃い日々を、とても遠くに感じる。
城は何百年も前から続いていた静謐さを取り戻し、窓を濡らす雨の音だけがゾロの耳に届く。彼の心もしんと静まり返っている。
廊下のつきあたり、屋外のバルコニーに出られる入り口があった。ゾロは月明かりに誘われるように、その入り口の前に立った。
サンジがいた。
こちらに背を向け、雨に濡れるままにバルコニーの中央に立っていた。
「おい」
ゾロはその場所から声をかけた。サンジはゆっくりと振り向く。ゾロと同じ白い寝間着と、茶色のサンダル姿。金色の髪が濡れている。白い生地は水を吸って、サンジの体にぺたりと張り付いている。
月明かりに照らされたその姿は、まるで青く光っているように見えた。
「何してる?」
ゾロは尋ねた。サンジの表情は心なしかぼんやりとしていて、ゾロを透かしてどこか遠いものを見ているようだった。
「雨に濡れてる。みりゃわかんだろ」
低い声でサンジは答えた。
「濡れてるって・・・楽しいのかよ」
「・・・何か、この雨、甘いんだ」
サンジはそう言って、右手のひとさし指を口元に持ってくると、それをぺろりと舐めた。そして雨を味わうように素振りで、僅かに口を開けて上を見上げた。
そんなサンジに半ばあきれたように、ゾロは雨の降るバルコニーに降りた。
細かい雨が肩に、髪にあとからあとから振ってくる。頬に触れる水の飛沫が、心地よい感触を与える。
「へぇ・・・ほんとだな。気持ちいい雨だ」
ゾロが言うと、サンジは微笑んでゾロを見た。
金色の前髪から流れる雫が、ぽたぽたとサンジの薄い唇に落ちていた。心なしか唇が濡れて赤みを増している。ゾロはサンジの腕を掴んで引き寄せると、舌でサンジの唇を舐めた。
「・・・ちょっと甘い、かもな」
一瞬だけ掠めた唇を離して、ゾロは言った。そのまま腕の中にサンジの身体を抱き込む。
柔らかい体温を感じる。2人の心臓の音が溶けて、ひとつになる。
確かに生きている、と再びゾロは思う。
「何すんだよ、エロマリモ」
悪態をついたサンジは、それでも強い力でゾロの首に腕を回した。
顔を上げてバルコニーの柵越しの景色を見る。
けむるように降り注ぐ雨の膜の向こう側には、街が広がっている。その先には広大な砂漠がある。雨のせいでまるで海のように見える砂の地面に、雲の合間から覗く月明かりが反射している。
ふと、右の頬や首筋に雨とは違う熱く湿った感触に気づく。
ゾロの肩に顔を埋めたサンジの背中が震えていた。
ゾロは何も言わずに、抱く腕に力を込めた。肩がサンジの涙で熱く濡れていく。
「・・・こうやってるとさ、生き残ったんだなって実感が湧いてくる」
少し擦れたサンジの声が吐息と共にゆっくりと吐き出される。
「そうだな」
ゾロは穏やかな声音で答える。
「もうお前には会えないかもしれねえって、一度は覚悟したんだぜ」
「・・・ああ、俺もだ」
「おい、てめえ俺のこと信用してなかったのかよ」
「それはこっちのセリフだろ」
「・・・俺はただ、このままここで死んで、お前の顔もう見れないのは絶対嫌だと思ったんだよ。だから何が何でも生きようって」
「ああ」
「もし、お前が」
とサンジは顔をゾロの肩に伏せたまま呟く。
「俺より先に死にやがったら、殺すからな」
「・・・わかった」
矛盾した言葉を言うサンジ小さな頭を抱え、ゾロはその金の髪を梳いた。いつもは嫌がる行為をサンジはされるがままに許している。
こうして触れ合うことの理由を今は探さなくてもよい、とゾロは思った。
雨が止まなければいい。
夜が明けなければいい。
閉じられたこの時間が少しでも永く続くように。
甘い水は静かに二人を濡らしている。
いつか二人の道に別離が訪れたとき、それでもこの夜だけは永遠に青く光っていることを、ゾロは切に願った。