樹氷の君
天候が崩れた日におけるガイ・セシルの仕事は、中庭で剣術の稽古を行うのを何よりも大事にしている公爵子息のご機嫌伺いをすることだ。とある事情に基づいて屋敷に軟禁状態にある彼は退屈を何より嫌っており、そういう主人の心情を汲むのもまた使用人の務めだった。
彼の私室の前に立ち、短くノックをすると、中から「入れよ」と返事があった。
「ルーク。失礼するぞ」
一言断ってからドアを開けると、真っ先に飛び込んできたのは赤色だった。彼は部屋の中央に置かれたベッドに横たわっており、焔色をした髪が純白のシーツに広がっていた。
シミ一つない白に広がる紅蓮は本当に美しく、不覚にも足を止めてしまった。キムラスカ・ランバルディアの血に連なる者はみな彼と同じ赤色を宿しているが、特に若い彼の持つ輝きは格別だった。
不躾な視線に気づいたのか、彼が嫌そうに顔をしかめた。
「なんだよ。ジロジロ見てんじゃねーよ、うぜーな」
「ああ、悪い悪い。何、ルークの髪があまりにもキレイだったから、ついな」
「はぁ!? バカなこと言ってんじゃねえ! キモいんだよ」
どうやら本格的に機嫌を損ねているらしい。今日は預言通りの雨模様で、剣術の稽古ができずにいる彼は朝から手負いの獣のようにイライラしていて、返ってくる言葉は普段の何倍もトゲがあった。
彼は何も知らない。この時代、美しい髪を保つことがどれほど大変なことなのかを。
マルクト帝国(と思われる何者かに)誘拐されて以来、彼の時間は止まってしまった。後退はしないが成長もしない。完全なる停滞だ。
ふとしたときに聞こえる内なる声は、そんな彼を馬鹿だと嘲笑う。
屋敷に軟禁されているとはいえ、ヴァン謡将は屋敷を訪れているわけだし、その気になればいくらでも外界を知る機会はあったのだ。彼は一切合切を放棄して、自由以外のすべてがある屋敷を自らの世界とした。
複数あった結末はそのとき選択され、決定印が押された。もう覆らない。
彼が泣いても、叫んでも。
「ガイ、おまえ仕事ねえの?」
唐突に声をかけられ、はっと意識が切り替わる。
「あったけど、今日は雨だって言うからな。早めに終わらせたよ」
「ふーん。じゃ暇だし、なんか話してけよ」
そう言いながらも彼の視線はレコードに注がれている。自分から話題を振ったくせに、『ガイの話』への興味はよく見積もって五割といったところだろうか。あちらこちらにすぐ関心が移っていくさまがどうにも子供っぽく感じられて、思わず苦笑がこぼれた。
「そうだな。じゃ謎かけはどうだ?」
「んー……たいして興味ねえけど、しょーがねえからやってやるよ」
ルークの翠緑の眼が瞬き、レコードから離れた。
「早く出せよ」
「わかったわかった。じゃこれから問題を言うから、よく聞いてろよ」
「おう」
それまでだらしなくベッドに横たわっていたルークが身を起こし、ベッドの上に胡座をかいて座った。反動でスプリングが軋み、緋色が揺れた。
「問題です。世界で一番多く落ちるものはなんでしょう?」
「……なんだよそれ」
「それを考えるのが謎かけの醍醐味ってもんだろ。ほら、ちょっとは考えてみろよ」
ルークは腕を組んでしばらくの間何やら唸っていたが、やがて足を投げ出してベッドに仰向けに寝っ転がった。枕で埋めて見えない顔のあたりから聞こえてくるのは「わっかんねーよ、んなもん!」という不貞腐れた言葉だった。仕方ないので、わざと「ルークには難しかったか?」と茶化して、用意していた答えの通り、わずかに窓を開けた。
「正解は雨。雨粒は世界で一番多く落ちるんだぞ」
「ウソつけ! そんなん今考えたんだろ!」
「そんなことないぞ。ルーク、雨の日には雨の日の楽しみもあるんだ。俺が言ったことが本当か雨粒を数えてみたら意外に面白いかもしれないし。ほら、雨に濡れて花がキレイだ。止んだら虹だって見える。な? そう思うと楽しみだろう?」
「……別に」
「晴れたら俺と一緒に剣術の稽古でもしようかなーとか、どうだ?」
「べっつに! つーか俺、稽古するならヴァン師匠とがいい!」
「うわ、傷つくなぁ」
ベッドの上をごろごろと転がりながら駄々をこねるルークを宥めながら、ここで本当のことを教えたらどうなるだろうか、少しだけ考えた。ユリアの預言は歴史の改竄を決して赦さないだろう。話したとしてもルークの思考には留まらず消えてしまったに違いない。
そう、彼がそれを知るのは今ではない。彼が思い知るのは、祖国と家族を奪われた男の復讐劇が閉幕したときだ。
ヴァンを頼って導師イオンや大詠師モースに出会うこともできただろう。家庭教師は決まった時間にやってくるのだから、もっと真剣に話を聞くこともできた。父や母や使用人といった、屋敷に住まう人々から学んでもよかった。自由がないと不満を言いながらも、彼はこの箱庭世界に安楽を見出していたから、それ以上何もしなかった。
自分たちの一族がホド島に何をしたのかきちんと学んでくれたなら。そして、それを理解した上で彼がせめて一言「ごめん」と言ってくれたなら、それだけでよかったのに。
複数あった選択肢は一つずつ潰され、最悪に決定印が押された。もう覆らない。
彼が泣いても、叫んでも――――絶対に赦さない。
「本当はな、ルーク」
世界で一番多く落ちるものは、いのちだ。