銀の優しさ
新八が片付けを終え居間に向かった時には、陽は既に天高く昇っていた。
開け放った窓からそよりと吹く風が髪を揺らし、額を掠めて少しくすぐったい。しかし今迄忙しなく動いていた身には、その冷たさを孕んだ風は、とても心地好いものだった。
「銀さん?」
てっきりソファで寝ているものだと思った銀髪の男は、然し思惑とは裏腹に、忽然とその姿を消し去っていた。
ぐるりと首を回して、襖一枚分開いている和室をもチェックする。
「また何処かに出掛けたのかな」
蛻の殻の室内を見て、そう新八は結論付けた。男がふらりと何処かへ姿を眩ますのは、最早日常茶飯事の様なものだ。
まがりなりにも成人している大の男の行く先を一々聞くのも憚られ、それに何より、戻って来るのを前提としていたので、新八は――おそらくもう一人の従業員、神楽も――然程心配はしなかった。
何があっても男は戻ってくる―――。
盲信にも近い確信と、そして絶大なる信頼とで、それは成り立っている。少し突付けば簡単に跡形も無く崩れ去る脆さを持ったソレは、然しだからこそ強い。
「怪我してなきゃいいんだけど」
そうしてふうと、新八は一つ溜息を吐いた。
何だかんだで厄介事に巻き込まれるのを常とする男は、負傷して帰宅することも珍しくない。杞憂で済むのならばそれに越した事は無いし、酒やギャンブルに興じている様だったら、神楽にでも制裁を加えて貰えば良い。
そんな事を悶々と考えながら、新八は緩慢な動作で袂から小さな丸い容器を二つ、取り出した。
その内一つの容器の蓋を取って、白く滑らかなクリームを指先で掬う。そうして自身の指に、万遍なく塗り込んだ。
一般的に女性が使用するであろうそのクリームは、新八が自ら買って来たものだ。もう一つ、蓋を開けられていない方の容器は、今は此処に居ない男―――銀時がくれたもの。
確か先週の事だったと、新八は記憶している。
今日の様に新八が台所に立っていると、何時の間に背後に立っていたのか、銀時が徐に新八の手を掴み、そのまま己の目線の高さまで持っていった。
何事かと驚く自分には目もくれず、銀時は唯じいとその一回り小さな手を見詰めていて、新八は酷くうろたえた。
そうして充分な時間が経った頃、
「手、」
銀時が起こした行動は、それだけだった。
途端興味が失せたのか、何事も無かったかの様に居間に戻る男を、新八は唖然として見送ったものだ。
それから数日、稼いで来ると嘯いた男をみすみす逃し、歯痒い思いをしている新八を知ってか知らずか、当の本人はその日、上機嫌で帰ってきた。どうやら宣言通り、今回は一山当てた様だ。
然しそれでこの鬱憤が晴れる筈も無く、さあ今から怒鳴ってやろうと口を大きく開けた瞬間、ずい、と銀時の手が差し出された。
「ん、」
更に押し付ける様に伸ばされた拳に、新八は少し仰け反りながらも手を添える。
するとぽとりと何かを掌に落とされて、それを訝しく思い己の手を覗き込むと、其処には丸くて小さな入れ物が、ちょこんと鎮座していた。
「銀さ、」
「やるよ、それ」
「は?」
「俺必要ねーし。お前にやるよ」
当てたのは良いんだけどよ、どーでもいいモン貰ってもなァ。
億劫そうにぼやきながら戦利品を漁る銀時を尻目に、なら最初から貰って来るなよと、余程言おうかと思った言葉を、新八は必死で止めた。
変な所で勘の良い自分は、その刹那にその意図を読み取ってしまったからだ。
――――何て恥ずかしい人だろう。
気にしているとは思わなかった。気に掛けて貰えるとは思いもしなかった。それだけに、様々な感情が己の内で渦を巻く。
「銀さん」
赤くなっているであろう顔は、目の前の男からは逆光できっとよくは見えていないだろう。仮令見えたとしても夕陽が差し込むこの空間では、それがどちらに因るのものかなんて、判別する術など無い筈だ。
「まあ一応、貰っておきます」
「…………おう」
鹿爪らしい顔で頷かれて、新八は思わず吹きそうになった。然し此処でそんな事をしようものなら、銀時の機嫌を極限まで損ねてしまう。ましてや「有難う」だなんて―――。
***
きゅ、と音を立てて蓋を閉める。机上に置かれた二つの容器。
一つは自分で購入したハンドクリーム。もう一つは、銀時が自分へとくれた傷薬。
手を翳して、まじまじと自分の手を観察する。
己の手は、傷だらけだ。些細な依頼でも必ずと云っていいほど怪我を作るし、炊事洗濯をやっていれば嫌でも皸が出来る。傷だらけでガサガサなのだ。
だからといってそれを表立って言った事は無かったし、寧ろそれは否応無しにそれらに付随するものとして、新八は気にも留めていなかったのだ。
それなのに、目敏いあの男ときたら。
そっと貰った傷薬の縁を指の腹で撫でて、新八はひっそりとほくそ笑む。
今迄一度たりともこの傷薬を使った事が無いと言えば、あの男は一体どんな顔をするのだろうか。想像しただけで笑いが込み上げてくる。
「銀さんには悪いですけど、僕なんかにコレは使いはしませんよ」
ふらりと出掛けては傷を負って帰って来る男。誰よりも怪我の絶えない男。何よりも先ず自分が一番、それが必要だろうに。
それでもそうはしない銀時を、愛しいと思う。けれどだからこそ、その分己が確りと見ていなければならないのだろう。
そう思ったからこそ、痛い出費だと分かっていつつも、わざわざ薬局に走りハンドクリームなんてものを買った。
この傷薬は、銀時専用なのだ。
何時か必要になるそれを銀時本人に見せたら、さぞや驚く事だろう。良い気味だ。
ハン、と鼻で哂って、けれど奥底ではその時が来ない事をひたすら願う。無理だと解っていても、使わずに済むのならば、それに越した事は無い。
「たでーまァ」
覇気の無い声とガラリと戸の開く音で、新八はハッと我に返った。そうして大慌てでそれらを仕舞い、銀時を出迎えるべく居間を出る。
一抹の不安と、期待を心の内に抱えながら。
「おかえりなさい」
「おう。っとそうだ、新八。ホレ」
「…………傷薬?」
「当てた」
「…アンタまた行って来たんですか」
「いいだろ、こうして倍にしてきてやったんだからよ」
「明らかに投資の方がデカイですけどね」
のらりくらりと嫌味を躱す憎たらしい男を睨め付けながら、けれど新八は銀時に気付かれぬ様、密かに笑みを刷いた。
「銀さん」
「あ?」
「コレ、貰っておきます」
「…お、おお」
何時かの為に、大事に取っておきます。
音に出さずに呟いた言の葉を、密やかな策略を胸の内で思い描きながら、新八は優しい男の背を追った。
end.